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タクシー 

2016, 10. 31 (Mon) 00:30


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脚を負傷していた頃、一時的にタクシーを利用する機会が増えました。

所用でやむなく外出した帰りなど、さほど遠くない距離でも無理はせず素直に利用することにしたためです。(やはり病院の帰り道、歩いて帰ったのは失敗でした)まあ、脚を腫らして痛い目に遭わないと学ばないぼくがアホなんですが。

タクシーはやはり便利ですね。速いですし、あっという間に目的地に着きますし。ですが最近、その利便性よりもぼくが好んでいるのが運転手さんとの会話です。少し前からなのですが、車に乗っている間、運転手さんとよく会話するようになりました。

以前は、というか学生時代の頃は、こういうちょっとした世間話がぼくは苦手で、どちらかと言えば避けていました。自分でもあまり話しかけて欲しくないなあ、というオーラを無意識に出していたように思います。それがどういう自意識の変化か、最近はこの手の会話が全然平気になりました。すると不思議なもので、先方からも気軽に話しかけてきてくれるようになり、そうした機会が自然と増えるようになりました。あれはなんででしょうね? やっぱりこっちが心を開いていると、むこうもそれを察して自然と話しかけやすくなるのでしょうか。

運転手さんはふだんは黙ってハンドルを握っているだけですが、実は面白い人が多いですね。特に年配の運転手さんは人生経験が豊富で、話していて面白いです。中には凄い人生を送っていらっしゃる方がいたり、ときどき思わぬ気づきや感心させられることがあったりと、そんな方の車に乗ったときはちょっと得した気分になります。

中には妙に親切というか、すごく世話焼き好きの運転手さんがいて、以前ぼくが小さなパソコンデスクを購入し、自宅までの帰路タクシーを利用したら、その運転手さんがぼくの荷物がパソコンデスクだと知るや、「にいちゃん、もっと安いお店はたくさんあるよ!」と、自分もよく利用するという最寄りの大安売りのお店を紹介してくれたり、最短で行ける道路ルートを事細かく説明してくれたりと、すごくありがたいんだけど、「いや、ぼくもう……」みたいな、反応に困っちゃったことがありましたね。

あと太平洋戦争の頃の思い出話とか熱くしてくれる人がいたり、怪談話をしてくれる人がいたりと(これは参った)、なかなかタクシーの後部座席という空間は侮りがたいものがあります。

脚も無事恢復したことですし、今後はあまりタクシーを利用する機会はなさそうですが、もし乗ることがあればまたいろんな話をうかがいたいですね!

冬支度 

2016, 10. 30 (Sun) 00:30


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いよいよ本格的に寒くなってきました。

これまでは少なくとも日中はぽかぽかしていたり、陽気が心地よかったりといった日もありましたが、最近はもう少々のお天気は関係なしにいつも寒風が吹き荒んでいます。外出するたびに厚着をする機会も多くなり、それでもなお首筋あたりに差し込んでくる冷たさに身をすくめる毎日です。いやー、ほんとうにびっくりするくらい一気に寒くなりましたね。

もっともぼくの冬支度はもう完了しています。部屋にストーブは用意しましたし、灯油も入れたし、書斎にホットカーペットもすでに敷きました。衣替えもすべて済ませました。これでいつ冬将軍がやってきても大丈夫! 燃料が切れたり、履帯が外れたり、泥濘に足まわりを取られて立往生したところを十字砲火を喰らったりすることはなさそうです。

ぼくは無類の寒がりで、常に部屋はぬくぬくしていないと調子が出ません。道産子はよく寒さに強いと言われますが、そんなことないです。(きっぱり)
以前、北国の家の造りを説明させて頂いたことがありましたが、個人の寒さへの強さに頼らない住宅造りが北国の建築の基本設計思想になっていると思います。というか、生存条件に関わってきますからね。ただ、戸外では確かに寒さに強いかもしれません。(まあ、慣れているだけとも言えますけれど)あと、天候の変化にもわりと強いかな。

外で空っ風が舞っていても、秋の夜長、部屋の中を暖かくしてする読書は格別です。今読んでいるのは半藤一利さんの『聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎』とB・クロウの『ジャズ・アネクドーツ』です。後者は村上春樹さんの訳ですから読まれた方も多いかもしれませんね。ジャズはぼくも好きでよく聴いていますが、こういう逸話集っていいですよね。知っている名前が出てくると、おっと身を乗り出してしまいます。春樹さんの本では『ポートレイト・イン・ジャズ』も好きで、時々引っ張り出します。

今は追い込みで、一日、ちょっとずつしか読書ができていないけど、もう少しゆっくりじっくり本が読めたらいいなあ。……と思わず願望が漏れたところで、今回は冬支度のお話でした。

コーヒーとチョコレート 

2016, 10. 29 (Sat) 00:30


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飲み物はよく飲みます。

書いているときはだいたいなにかしら机にコップがあるという感じです。ひどいときは手元に三つも四つもコップがあり、はっと気づいてあわててキッチンに洗いに行く、といった感じになります。以前はマグカップが多かったのですが、最近はタンブラーというのでしょうか、保温能力や保冷能力の高い金属性のコップを愛用しています。いいですね、これ。時間置いても全然冷めていません。

とにかく水分はよく取りますね。我ながら飲み物を補給して活動しているんじゃないかと思うくらい。……というか「とりあえず水さえあれば俺は生きていける」という盲目的な自信みたいなものが自分をここまで支えてきた様な気がします。腹が減った? 俺の知った事じゃねえんだよ! という。(どっちも自分です)もちろん若い頃にありがちな自我と肉体を分離しうる、精神は肉体を超越しうるという思い込みなんですけど。

ただこうなった原因のひとつには、これまでの人生の経験から、食べたら十分に頭が働かなくなってしまうという思いがあるからです。これはほとんどぼくにとっては恐怖に近い信仰で、いい文章を書くには空腹がベスト。いったん飽食したらその日はもう一行も書けない。なにも思いつかない。という変な思い込みがぼくの中に深くあります。もしかしたら、この意識が食べ物の代わりに飲み物に対する欲求をもたらしているのかもしれません。

好きな飲み物と言えば……やはりコーヒーでしょうか。一番好きな飲み物です。あとはお茶、とくに「おーい、お茶」なしの人生はぼくには想像出来ません。炭酸飲料はふだんほとんど飲みません。コーラは以前大好きでしたけれど、今はぜんぜん飲まなくなってしまいました。

あ、でも、旅先の海外で運良く巡り会えたジュースってすごくおいしいですよね。以前エジプトに旅行に行ったとき、食事がまったくあわなくて一週間スプライトだけを飲んで暮らしていたことがありましたが、おかげでとくに痛痒は感じませんでした。飛行機で帰国した直後にクーデターが起こり、革命が勃発したりムバラク政権がひっくり返ったりと大変な旅でしたけれど。

とにかく書いているときは水、お茶、コーヒーという黄金のトリオでローテーションを回しているという感じです。一時期リプトンの紅茶にはまって飲んでいた時期もありましたが、結局いつの間にかコーヒーに戻ってしまいました。

こんなぼくがよくやるのが、「あ、コーヒーを飲みたい」と思い、コーヒーメーカーをセットしたのち部屋に戻って二、三時間机で作業してから、「あ、そういえばコーヒー」と思い出してあわてて戻ってみると黒々とすっかり煮詰まった謎の液体ができあがっている、という失敗です。これは本当によくやりますね。そのあと、再び一からコーヒーを入れ直すことになってしまい。ううむ。いい加減、学習しないと。

ちなみにこの文章もコーヒーを飲みながら書いています。あとチョコレートと。
コーヒーとチョコレートがあればぼくは生きていけます。この組み合わせは最高です。

栗と紅葉 

2016, 10. 28 (Fri) 00:30


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紅葉が綺麗です。

最近、散歩を再開しました。怪我していた脚もここにきてようやく恢復してきたためで、歩くことにほぼ違和感もなくなり、それにつれまた出歩く機会も増えてきました。(長かった……)

ぼくが家に閉じこもっていた間も季節は流れ、紅葉は確実に色づいていたらしく、色とりどりの葉がなんとも良い感じに目を楽しませてくれます。これで写真を撮る腕でもあればカメラを持ち出し、思う存分シャッターを切るのでしょうが、ぼくはといえば相変わらずの腕前なので、カメラは諦め、目で見るだけにとどめています。それでもちょっと近くの土手を歩いたり、橋を渡ったりするだけで赤や黄色の色彩が目に飛び込んできます。いや、ほんと、わざわざ電車や車などで紅葉スポットに行かなくとも近所で十分なのでは……と思えるほどです。(まあぼくが横着なだけですが)

巷では日本シリーズがまさにたけなわのせいか、最近、野球をしている小学生くらいの男の子をよく見かけます。やはり地元ですから日本ハムは人気がありますね。この寒空の中、ほっぺや耳たぶを真っ赤にして友達とキャッチボールをしています。きっと大谷選手のファンなんでしょうね。

自分の農園で採れた野菜や果物を売る、寄り合いの野菜市場が近くにあり、まるまるとした旬の果物がよく軒先に並んでいるのを見かけるのですが、先日はそのあたりを通りがかったとき、焼き栗の良い匂いがぷうんと鼻先に漂ってきて思わず一袋買ってしまいました。聞けば、市場は冬の間は閉めるので、お店を開いているのもあとわずからしいです。来年の春までしばしのお休み―――そしてこの一帯もやがて雪にすっぽりと埋もれることになりそうです。

空が隅々まで見渡せそうな秋晴れの日。
昼下がり、つかの間の散歩のひとときに目に映った秋の一コマでした。
(あと、栗も美味しかったです)

ミッドナイト・ラン 

2016, 10. 27 (Thu) 00:30


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ミッドナイト・ランは大好きな映画です。

賞金稼ぎを生業にしている元刑事の男と、彼が捕らえたマフィアの会計士、そのふたりの旅と友情を描いたこのバディムービーの傑作をぼくは二十代の頃に見ました。(完全に後追いですが)以来折に触れては引っ張り出して見るお気に入りの作品です。監督がマーティン・ブレスト、主演がロバート・デ・ニーロということもあってご覧になった方も多いと思いますが、ぼくもこの映画は本当に好きですね。全編多幸感に包まれるわくわく映画です。

「バディムービー」とは映画のジャンルのひとつで、「バディ」はbuddy、男性同士の友人や相棒のことを指します。つまりバディムービーとは「男二人のコンビもの映画」という意味です。刑事二人がコンビを組んで活躍する映画を思い浮かべていただければなんとなくニュアンスが伝わるのではないでしょうか。作品で言えば『リーサルウエポン』や『ビバリーヒルズ・コップ』などがそうですし、『攻殻機動隊2 イノセンス』もバトーとトグサによるバディムービーと言えるかもしれません。

このバディムービーはまさにハリウッド映画の醍醐味と言ってもよく、ぼくもとりあえずなにを差し置いても観る、というくらい大好きなジャンルなのですが、ただ最近ちょっと思うのは、このところいい意味での「バディムービー」が減ってきたなあということです。(『コードネームU.N.C.L.E.』のような傑作もあるにはありますけれど。)

あくまで個人的な考えですが、いいバディムービーというのは男性二人がコンビを組んでいれば何でもいいのではく、「出自や性格の違う二人がはじめはいがみ合いながら(ここ大事!)時に反目、時に協力し合って共通の困難を乗り越え、最後は男同士の絆で結ばれる」……こういうものだと思うのです。つまり二人は(少なくとも物語の中盤くらいまでは)仲が悪くなくてはいけない。

その点、このミッドナイト・ランのデコボココンビは条件にぴったりです。なにしろ賞金稼ぎの方は相手を捕らえて一刻も早くお金に換えようと目論んでいますし、片や会計士の方は逃げ出したくてたまらないわけですから。しかも性格は全くの正反対。とにかくこのふたり、道中よく喧嘩をしています。

そして、この映画において彼ら二人のキャラクターを物理的に繋ぐアイテム、手錠が登場します。そう、この映画はバディムービーであると同時に優れた手錠ムービー(?)でもあるのです。

いがみ合っているふたりが心ならずも手錠で繋がれる。……と書くとなにやら違うものを連想しそうなシチュエーションですが、この映画ではどっちも腹の出かかった中年のおっさんなので、友情やロマンスよりはだますかだまされるかの知恵比べの様相を呈します。しかも脚本の妙か、作中における施錠組み合わせ(?)というか繋がれる手錠カップルのその多彩なこと。(人と物を含む)ちょっと数えただけでも、会計士両手、会計士片手&列車の手すり、会計士片手&トイレ、会計士&貨物列車の手すり、会計士&賞金稼ぎ、ライバル賞金稼ぎ&車……と、そのバリエーションの豊富なことと言ったら。

ジャッキー・チェンの『プロジェクトA』も手錠ネタと手錠アクションがかなり多彩でしたが、この作品では手錠が単なる拘束具ではなく、演出上大きな役割を果たしているのが特徴です。つまり、このいがみ合っている二人が徐々に徐々に心の距離感を詰めていく、その親しみの度合いをこの手錠は緩やかに、そしてさりげなく示していくことになります。そしてあの有名なラストシーン。会計士の手錠がついにその手首から外されるとき、二人の関係が最初とどう変わっているのか、それは見てのお楽しみというところでしょうか。

とにかく盛りだくさんのこの映画、笑えて泣けて感動してと全編何処を切り取っても見所と言って良いくらいなのですが、なんと言ってもこの作品の白眉は、路頭に迷い、旅費にすら困った賞金稼ぎが会計士を伴って離婚した元妻のところへお金を借りに行く下りでしょう。

本来ならこんな形で会いたくない元妻、しかもお金を貸してと言わなければならないのですから情けないことこの上ないこのシーンを、さすがにデニーロはウェットにならない感じでさらりと、しかしペーソスたっぷりに演じています。ぼくも初見の頃は笑って観てましたけれど、今この歳になってなって見返すとなんだか身につまされる感じがして(いや、べつにぼくにこういう経験があるわけではありませんが)、妙にしんみりしてしまったり。

そして成長した娘との再会シーン。八年という歳月を経て見違えるほど美人になった娘をデニーロ演じる賞金稼ぎはあくまで軽くぎこちなく、そっと肩を抱くだけです。愛しているが故に抱きしめられない。自分にはその資格がない。その彼の想いが痛いほど伝わる感動的なシーンです。そしてその感動シーンの直後、車に乗り込む会計士のドアをデニーロがそっと開けてやり、コートを挟まないようにさりげなく整えてあげてからドアを閉める下りとか、この辺のユーモアはまさにこの作品全編に通底する優しさそのものと言っていいでしょう。

とにかく画面の隅々にまで溢れる即興さと自由さ、そして逆に緩さをまったく感じさせないぎゅっとタイトに引き締められた脚本と、すべてがつまった素晴らしい作品です。実際、デニーロはこの作品が自分のキャリアの中でもお気に入りの一本らしいです。

最後にひとつ、この映画の最大の欠点は、これがしょぼい画質のDVDでしか観られないということです。これはみなさんお感じになっているようで、そうした声はレビューなどを見ても結構ありますね。かくいうぼくの持っているDVDも古い奴です。(しかもCDサイズのパッケージ)

でも本当に素敵ないい映画ですので、もしまだ見たことのないと言う方がいらっしゃったらぜひご覧になってみて下さい!

ハロウィン間近 

2016, 10. 26 (Wed) 00:30


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いよいよハロウィンが近づいてきました。

最近、道を歩いているとよくハロウィンの飾り付けをよく見かけます。とくに繁華街はすごいですね。駅前など人通りの多い華やかな場所やお店はそれだけ店先のデコレーションにも気合いが入るのか、どこもかしこもオレンジ・黒・黄色(?)などのハロウィン・カラーが満ち溢れています。

数年前までさほどイベントとしては認知されていなかったようなイメージがあるハロウィンですが、最近の世間への浸透ぶり、馴染みっぷりは目を見はるものがあります。ぼくも魔女のお話とか書いてますから、あまり言えた義理ではないのですが、いったん定着してしまった後の日本のパワーはすごいですね。今やすっかり秋定番の四季イベントとなってしまいましたから。

中にはそれが好ましくないと思われる方もおられるかもしれませんが、ぼく個人の実感としましてはあまり抵抗はありません。なにより子どもたちが喜んでいる姿を見られるのが嬉しいですね。今の小さい子たちはほんとうにハロウィンを楽しみにしていますから。おいしいお菓子も食べられますし。

お店の飾り付けなどを見ると、お化けカボチャやロウソクや幽霊など、全体としてはデザイン的にかわいい感じの飾り付けが多く、そのへんは日本ならではのお国柄なのかな、などと思いますね。リアルさを追求するよりは丸みを帯びさせ、かわいらしくディフォルメせずにはおかない国民性、というか。

以前コストコに買い物に行ったとき、ハロウィン関連の商品がたくさん並んでいる中で、一際目を引く鎌を持った死神やグロテスクな髑髏の等身大(と言ってもアメリカ人サイズだから全長2メートル近くある)人形が飾ってあり、子どもが見たら泣き出しそうなそのあまりのリアルさに、いったい誰が買うんだこんなもんと、思わず心の中でつっこんだことがありましたが、(とゆーか、あれを飾る場所がお化け屋敷以外思いつかない)たしかに日本ではハロウィンにリアルな造形を追求するアプローチはあまり見かけませんね。受けが悪そうですし。

ではもうひとつの日本の文化、コスプレの方はどうかと言うと、魔女のかっこをした店員の綺麗なおねーさんとかは残念ながら見かけなかったですね。もっともこれは、むしろ我々の側がするものなのでしょうか。いずれにせよ仮装される方々が登場されるのはハロウィン当日のことでしょうから、もうちょっと先のことかもしれませんね。

ハロウィンまでもう少し。我が家も玄関の前をたくさん飾り付けて、子どもたちの元気な『Trick or Treat!』の声に応えられるようにしようっと。

お掃除 

2016, 10. 25 (Tue) 00:30


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「どこだっけ?」


最近、よくお掃除をします。

前に当ブログでかつては部屋の中がすごい有様だったという話をしましたが、書庫を独立させ、本をすべて自室から片付けてからは、自分でも感心なことにこまめにお部屋の掃除をするようになりました。(本のせいにしないで前からちゃんとしとけよ、という話ですが)

でも、お掃除って楽しいですよね。気持ちがすっきりするというか、なんとなく晴れ晴れとした気分になります。部屋の中が乱雑になる前に整理するように心がければ、そう時間がかかることもありませんしね。掃除に関しては忠実でも努力家でもないぼくですが、最近、綺麗好きな人の気持ちがちょっぴりわかってきたかも。まあ、掃除機はともかく、毎日拭き掃除をしたりはしませんが。

部屋が散らからない一番の方法は物を買わないことであるとよく聞きます。でもこれって、なかなか実行に移すのは難しいですよね。人間、ふつうに生活していれば自然と物は増えていきますから。(ぼくの場合は本とDVD)とすれば、さしづめ次善の策は物を捨てることでしょうか。でも、これも簡単そうで結構むずかしそうです。いざと物を捨てるとなるとなかなか踏ん切りが付きませんし、もったいないという気持ちも起こってしまいます。また、その時は「いらないや」と思っても、やっぱりあとで「いる」と思うこともありそうですし。

ちなみにぼくが後悔するのは、やはりコンテンツを捨ててしまったときですね。これはほぼまちがいありません。それが本であれ、漫画であれ、映像記録媒体であれ、今までなにかを捨て、一度も後悔をしなかったということはあまり記憶にありません。(『L.A.コンフィデンシャル』のビデオを一度捨ててしまってDVDが再販されるまでの間がまあ長かったこと。)最近は断捨離などという言葉をよく聞きますが、やはり煩悩多き一般人にはミニマムな生き方というのはなかなか難しいのかもしれません。

まあ断捨離はともかく、部屋の中がすっきりとしているのは精神衛生上いいものです。……というわけで、今日も部屋に掃除機をかけ、机の上の片付けを済ませてしまおうっと。そしてはやいとこ長い間行方不明になっている岩波文庫の『ハックルベリー・フィンの冒険〈下〉』(訳 西田実さん)を見つけ出さなければ。
大好きな、面白い本です。

スターウォーズ 

2016, 10. 24 (Mon) 00:30


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スターウォーズに対しては複雑な思いがあります。

もちろん、作品そのものは大好きです。とくにエピソードⅣからエピソードⅥまでの『新たなる希望』『帝国の逆襲』『ジェダイの復讐』の三本は数ある映画の中でもマイフェイバリットの頂にあると言っても過言ではありませんし、ルーク、ハン・ソロ、レイア姫など個々のキャラクターも本当に大好きで、その雰囲気や世界観も含め、暗記するほど繰り返し見たまさに青春の一本(三本)です。

しかし、それにもかかわらずスターウォーズに対しては複雑な思いがある。忸怩たる想いと言うのでしょうか。自分自身に向けられた悔恨に近い感情です。この素敵な映画にはまるべき時にはまる努力を怠ったというような、スターウォーズに対して申し訳ないような、借りがあるような心情。自分でも変な気持ちだとはわかっているのですが。

妙なもので時期的にほぼ同じ、かつ劇場三部作という構成も同じ『機動戦士ガンダム』に対しては、こういう気持ちを持ったことはありません。100%好きといえるし、かつて少年時代に自分の愛情をめいっぱい捧げた作品だと胸を張れるのに、なぜかスターウォーズに対しては僅かに怯むところがある。きっとそれは、当時ガキンチョだったぼくが奥手で、この作品を観たときによくわからなかったという想いによるものなのかもしれません。

それでも意味がわかる年齢になってからはスターウォーズがすぐに大好きになりました。とくに『帝国の逆襲』は大好きで、ビデオで繰り返し見ましたが、じつはこれはこの頃のぼくの生活と密接な関係があります。というのも、この頃(小~中学生ごろ)から宵っ張りの兆候が出始めていたぼくは夜更かしが大好きで、とにかく真夜中まで起きていては、好きな小説を読んだり書いたり、パソコンゲームしたりアニメを観たりとごそごそ活動するということをしており(今とあんまり変わりませんね)、その際のいわばBGVとしてこの『帝国の逆襲』があったのです。

まだ子どもですから夜一人で起きているのはこわいけど、でも夜更かしはしたい。そうだ、テレビを付けよう、そしたらこわくないぞ……というわけで、映画を録画したベータのビデオテープを引っ張り出してきては、夜中ビデオで再生しているということをしていました。以前ビデオで観た作品心のベスト3をブログで書いたことがありますが、それらに加え、『スパルタンX』『ルパン三世 カリオストロの城』『ベストキッド』などはそんな風にして繰り返し見ました。懐かしい思い出ですね。

スターウォーズの話に戻りますと、やはり世代的にエピソード4・5・6の初期三部作が一番思い入れがありますね。もちろん1・2・3も好きですけれど、キャラクターに関してもやはり前者の方がキャラが際立っている感じがします。ダースモールは好きですけど。

もちろん最新作のエピソードⅦも観に行きました。公開初日に友達といそいそと。行く前はかなり盛り上がって、ハン・ソロのチューバッカのコスプレをして行こうか、もし座れなかったら困るから朝一で劇場に着くようにしよう、などと熱く話し合って意気込んで映画館に行ってみると、思ったよりガラガラだったのでちょっとしょんぼりしてしまいました。でも、ヒロインのレイ役のデイジー・リドリーさんがすごくかわいくて、すっかりファンになりました。目力が凄いんですよね、この女優さん。

最後に余談ですが、スターウォーズという言葉を聞いてぼくが連想するのは、(変な話ですが)パルコ七階のオモチャ屋さんです。その店頭にはXウイングとかストームトルーパーのプラモデル……アメリカ直輸入のホビー商品やガレージキットが置いてあり、1/144のガンプラばかりが並んでいる近所のプラモデル屋さんとはどこかちがった大人っぽい雰囲気を醸し出しており、子供心にわくわくした記憶があります。あと、店先の入り口にあった段ボールに無造作に差してあったプラスチック製のライトセーバー。

新しさと懐かしさ、二つの要素を併せ持つ、きっとそれがスターウォーズの魅力なんでしょうね。

お化け 

2016, 10. 23 (Sun) 00:30


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お化けは見たことがありません。

自分で言うのも何ですが、ぼくは自他共に認めるこわがりです。お化けも幽霊も嫌いですし、怪談も嫌いですし、これだけ映画好きにもかかわらず、ホラー映画に関してもほとんど見ることはありません。(だって見た後こわいじゃないですか)

そんなへたれなぼくですが、そのせい(?)もあってか、幸い、これまでお化けを見たという経験は一度もありません。この手の話になると、よく霊的資質がある人間とない人間がいるという話になりますが、その区分でいくと、どうやらぼくは完全に霊的資質には欠けている方の側であるらしく、いわゆる霊的な現象に出くわしたことは一度もありません。

なんだよ。見たことないものを怖がるなよと言われそうですが、そこはそれ、恐怖は理屈ではないのです!(力説) なので、おっかないという感情はどうしても起こってしまいます。お風呂に入って髪を洗っているとき、「なにか出るんじゃないかなあ」とつい薄目を開けて見てしまう感じというか。

でも思うのですが、こういう恐怖の源って、結局人間の感情がこわいんだと思うんですわね。そもそもお化けや幽霊のこわさって、死んだ人間がなにか恐ろしいことをしてくるかも、というその理不尽さを想起してしまうこちらの想像力によるものですから。

だから―――と、ここでちょっと話は飛躍しますが、人間のいないところ、元々人間が住んでいなかったところでは幽霊は出ないんじゃないかと思うんですよね。極端な話、宇宙空間に幽霊は出ないというか。月面で白い服を着た女の幽霊を見たとか、スペースシャトルの中でNASAの乗組員が長い髪の恨めしそうなおばけを見たとか、そういう話はあまりなさそうです。南極圏や北極圏も幽霊人口密度(?)は薄そうですし、その伝で行くと、この北海道にもあまり幽霊さんは棲息していないということになります。(と自分に言い聞かせる)
だとすると、これはこわがりとしては喜ぶべきこと、なのかな。

映画の話に戻りますと、子供の頃にはよく平日の昼間の中途半端な時間帯にテレビで映画をやっていて、うっかり見たそれがホラーっぽい作品だとすごくこわかった記憶があります。印象に残っているのはやはりジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ』でしょうか。有名なエレベーターのシーンとか子供心に凄くこわかったですね。あと『サスペリア』とか『オペラ座 血の喝采』とか。(実はけっこう名作揃い)なにか消化しきれぬどよーんとしたものが心に残るんですよね。でも今思うと、それこそがまさに良い映画の条件のような気がします。いいホラーって、それがホラー映画である前にまず優れた映画でもあるんですよね。

うーん。なんかこんなことを書いていたら、久しぶりにちょっとホラー映画を見たくなってきました。ためしに一本くらい見てみようかな。でも、見たらぜったい後でこわくなるんだよなあ……。

というわけで、今回はお化け嫌いによるお化けの話でした。

お風呂 

2016, 10. 22 (Sat) 00:30


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最近、よくお風呂に入ります。

寒くなってきたせいか、それともなにか心境の変化的なものなのか自分でもよくわかりませんが、気がつくとお風呂を沸かし、首まで湯船につかってゆったりまったりしている自分がいます。いいですよね。お風呂。リラックス出来て。

とはいえぼくはお風呂に関してはわりとせっかちな方で、子供の頃からお湯に長くつかっているということが大の苦手でした。1から数え初めて10ぐらいまで数えたらもういいだろう、と飛び出してしまうような子で、今はさすがにもうちょっと長く入っていますが、でも気分的にはあまり変わっていないような気もします。なんていうか、浴槽の中にいる間を持てあましてしまうんですよね。ひまだなー、みたいな。実生活ではわりと気が長い方なんですけれど、うーん、なんでだろう?

でも銭湯は好きでしたね。あの特別な雰囲気というか、少しだけ昔を感じさせるゆるい空気感が。ぼくが子供の頃にはまだかろうじて町内に一件や二件くらい銭湯が残っており、自宅にお風呂があるにもかかわらず、そこに行くのが楽しみでした。

小学五年生くらいのとき、クラスの男子の間でにわかに「銭湯ブーム」が起き、夕方から夜にかけて、友達同士で集まってはみんなで小銭を持って近所の銭湯へわいわい繰り出すというよくわかんないことをしてました。でもすごく楽しかったですね。お風呂上がりにゲームして遊んだり、冷たいコーヒー牛乳飲んだり。今思うと彼らのお家にだってお風呂はあったわけで、にもかかわらずああして集まっていたのは、お互い友達と外で会うのが楽しかったんでしょうね。

最近はむかしのような小さな銭湯は姿を消し、スパのようなもっと大がかりな施設が多くなりました。豪華なサウナがあったり、食堂があったり、マッサージ付きのリラクゼーションルームがあったりと、ああいうところも行くと「いいなあ」と感じますが、ふとむかしの小さな銭湯が懐かしく思い出されるときがあります。でもそのへんを走り回っているお子さんとかを見ると、けっこう楽しそうにお湯と戯れていますから、たんなるぼくのノスタルジーなのかもしれません。

先日、ふとしたことでお風呂関係のショールームを見に行きましたが、最近のお風呂の設備はすごいですね。Bluetoothでスマホの音源をお風呂に備え付けのスピーカーから流せたりとか、シャワーヘッドに光が組み込まれていてお水に色を付けられたりとか、いろんな機能が満載でびっくりしました。今やお風呂ってたんに入るためのものじゃなくなっているんですね。近未来すごい! と感動し、思わず写真をたくさん撮ってきました。

いよいよ本格的に冷えてきましたし(うちの近所では朝、雪が降ってきました)、お風呂に入ってしっかり暖まり、これから年末までの時期を乗り切りたいですね。もちろん、湯冷めしたりして風邪を引いたりしないように気をつけて!

本棚 

2016, 10. 21 (Fri) 00:30


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部屋は綺麗な方です。

と、書くとなにやらぼくがすごい綺麗好きで立派みたいですが、全然そんなことはありません。ただ部屋にあまり物を置かないので、散らからずに一見綺麗に見える、というだけのことです。

もっともそうなったのはここ最近のことで、以前のぼくの部屋はそれはそれは酷いものでした。とにかく本本本……四囲の壁を埋め尽くす本の山で視界は覆われ、その上さらにテレビやらパソコンやらDVDの棚やらが部屋を浸し、人間の住める領域はあたかも腐海のほとりで生きる風の谷の如く小さな物でした。

知識こそが力であり、読書量が即ち戦闘力だ、と思っていた頃はとにかく本が手元にない暮らしなど考えられませんでしたから、こうした環境になることはある意味当然だったのかもしれません。その頃はそんな自分にまったく違和感など感じていませんでしたし、それが当たり前だと思って生活していました。もっとも、いちばん部屋の中が煩雑だった頃でも、一冊一冊の本の在処だけは不思議と把握出来ていたような気がします。

その後、増殖していく本とのすったもんだの共生生活の末、結局自室の書棚はすべて撤去し、新たに別の部屋を書庫とすることで部屋の中はずいぶんすっきりしました。(だいぶ苦労しましたけど)ただ、書庫は今のところふたつだけですが、今後増えていくかもしれないところが悩みの種ですね。(結構捨てたんだけどな。……ううむ)

それと、なまじ本棚を移動してしまったことで困るのがしまってあるはずの本を探せない時です。あ、あの本が読みたい、たしかあの本のあのページの下りにはこういうことが書いてあったはずだ、と思って探しに行っても肝心のその本がどこにあるかわからない。以前はその時点で頭にきて速攻でAmazonで同じ本を注文して確かめるということをしていましたが、それをやり出すと、家に同じ本が二冊も三冊もあるという事態になることに気づき、(当たり前ですが)この習慣はやめるようにしました。

理想を言えばやはり本は背表紙が見える状態で本棚に収蔵するのがいちばん美しく、また使いやすい状態なのでしょうね。ただ現実はそうもいかず、本が二段になったり、横になっていたり、適当な隙間に押し込んであったりと、秩序とも機能美ともほど遠い、ぼくの頭の中みたいになってしまうのが常ですけれど。

そういや、「本棚を見ればその人がどういう人かわかる」という言い方をよくされますが、これって当たっていると思いますね。本棚って、本当にその人の無意識の現れというか、その人が歩んできた過去を映す鏡のような気がします。(最近はKindleなどの電子書籍もありますし、一概には言えませんが)

では自分はどうかと、他人になったつもりで自分の本棚を眺めると、やっぱりこいつは歴史の本が好きなんだなーとあらためて思いますね。今日も先日届いた『占領下日本』を読了しましたが、すごく面白かったですし(これで『ザ・フィフティーズ』に戻れる)。やはり対談形式の本は読みやすいですね。にしてもこうしてみると終戦直後の日本って紙一重の連続だったんだな、と改めて思いますね。

もっとも、こうして気がつかないうちにいつの間にかひたひたと生活領域を侵していくところが本の恐ろしいところです。……もう少し整理整頓を心がけるべく、お部屋の掃除もきちんとしよう。

PSVR 

2016, 10. 20 (Thu) 00:30


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今回はプレイステーションVRのお話です。

先日いよいよ発売となったこのPSVRですが、ぼくもすごく興味があります。あのVRヘッドセットと呼ばれる物体を装着するといったいどんな映像やゲームが楽しめるのか、一度体験してみたいです。YouTubeなどで実際につけてる人のリアクション動画(?)を見ましたが、ほんとうに臨場感がいっぱいみたいでなんだか楽しそうです。海底でサメが襲ってくる画面になったら、身をすくめてみたり、とびあがってみたり……。

まだ発売直後とあってゲームは出そろってはいない感じですが、今後はいろんなジャンルのゲームがこの規格を使って登場してくるでしょうし、楽しみですね。いったいどんなゲームが出るんでしょう。やはりバイオやCall of Dutyみたいなアクションが定番かとも思うのですが、でも正直、このハードの特質を考えればリアリティや没入感という部分で、ファーストパーソン・シューターものに関しては相性の良さはもう保証されているようなものなので、できればちがうジャンルのゲームを見てみたいですね。(といっても、なかなか素人には思いつきませんが)

でも、『ソード・アート・オンライン』みたいに実際に一キャラクターとしてゲームの世界に入って暮らせたら面白いでしょうね。ほんとにそっちで暮らしたくなってしまうかも。ぼくとしては、ぜひVRを使った歴史物を作っていただきたいですね。例えば水滸伝とか。VRヘッドセットを装着して花和尚魯智深になりきって開封府の街でお酒をぐいぐい飲んだり、悪代官をやっつけたり、62斤の禅杖をふりまわしたりするのって超楽しそうです。(コーエーさん、作ってくれないかなあ)

ただ少し心配があるとすればあのヘッドセットの装着感です。重さはかなり軽いそうですが、長時間プレイ出来るのか、なによりあまりのリアリティに途中で酔ったりしないのか。そのむかし、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』という映画を見に行き、そのあまりの手ぶれ画面の揺れに途中で吐きそうになり、口元を押さえて冒頭の30分で映画館を飛び出してきた人間としては、また『ミッション・インポッシブル4 ゴースト・プロトコル』でトム・クルーズが世界一高いドバイの高層ビルの外窓を「謎のくっつき手袋」を填めてぺたぺた昇っていくシーンを見ただけで身をよじらせて発狂しそうになるぼくとしては、あんまりリアルすぎても身体がついて行かない可能性もありそうです。

もっとも、そんなダメ人間を差し置いても、こうした技術の進化は素晴らしいものがあります。なによりそれがぼくらに実際に手の届く、ゲームという日常の世界に降りてきてくれるというのがうれしいですね。

かつて少年期にありとあらゆるゲームの洗礼を受け、それを浴びるようにして育った世代としては、今後もこの世界に注目していきたいですし、見守っていきたいですね。(たとえ少々指先が動かなくなっていても!)

というわけで、今日はプレイステーションVRのお話でした。

秋日より 

2016, 10. 19 (Wed) 00:30


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脚の痛みもようやく引き始め、ちょっとだけ歩けるようになってきました。読書に使用していた自室の室内灯の電球のひとつが切れたこともあり、今日は近くのスーパーまで電球を買いに行きました。まだ少しぎこちないですが、自力で歩けるって素晴らしい。

紅葉も赤や黄に色づいてすっかり良い感じに華やかになった近くの土手をゆっくり歩いて行くと、途中に架かる橋が工事中で、警備の方が棒を振ってらっしゃいました。この季節、近所で工事が始まるのを見かけるようになると、「ああそんな時期かあ」と思わず心の中で年の瀬へのカウントダウンをはじめてしまうほど、年末にはおなじみの風景ですね。

お店に着き、電球をいっこ買いました。購入したのはLEDではなく普通の白熱球です。一時期、室内灯からパソコン前のデスクライトまですべてLEDのものに変えたのですが、数ヶ月間利用して、とくにデスクライトの方は眼の疲れが激しくなったような気がしたので、すべて元に戻しました。LEDも明るくて決して悪くはないのですが、読書や書きもの作業などの時はやはり普通の白熱球の方がぼくは相性が良いようです。お馴染みの光ですし、これ以上、眼に負担はかけたくないですしね。

本の方は相変わらずハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』を読んでいます。やっぱり面白いですね。ぐいぐい読ませます。ふと思ったのですが、ハルバースタムの著書は、『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』→『ザ・フィフティーズ』→『ベスト&ブライテスト』の順に読んだ方が頭に入りやすいですね。時系列にそって読めるというか、1940~1960年代のアメリカの政権の移り変わりの様子がよく理解出来る気がします。同じくちくま文庫の『占領下日本』(半藤一利、竹内修司、保阪正康、松本健一さん)の上・下も届いたので早いうちに読みたいですね。いっそ同時に手を付けちゃおうかな。

買い物袋を提げた帰り道、ふと高い空を見上げました。この一か月、本当にいろんなことがあったなあと思いつつ、四季の巡りだけは変わらないな、などと柄にもない感慨に一瞬ふけってしまった秋の日よりでした。

真田幸村 

2016, 10. 18 (Tue) 00:30


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真田丸が佳境に入っています。今週の真田丸は紀州九度山に流され長く幽閉生活を送っていた信繁が豊臣方に招聘され、ついに参陣を決意、幸村と名を改め、大阪城に入城を果たすという回でした。いよいよラストの大坂の陣が始まります。

ぼくは熱心な大河ドラマファンというわけではありませんが、真田丸だけは去年から放送を本当に楽しみにしていました。第一回放送から視聴をはじめ、以来欠かさずマラソンし続けています。その理由はと問われれば、やはり真田幸村・・・というか、真田一族の物語が好きだからでしょう。

ぼくは子供の頃から本好きでしたが、最初に真田幸村の名を知ったのは学研の『物語日本史』という子ども向けに日本史を物語にしたシリーズでした。その中で大阪城落城のエピソードの中に真田幸村の奮戦の逸話があり、子供心にすごくかっこいい人だなあと感心した記憶があります。あと、凄いリアルな顔の点描の表紙が印象的な日本の人物・伝記物シリーズ(名前が思い出せないけど、今思うと生頼範義先生のイラスト)があり、その中に確か真田幸村が収録されていたような気が……。

その後小学生高学年になり、活字に餓えまくってそのへんの長編小説を読みあさっていた頃に池波正太郎さんの『真田太平記』を読んですごくはまりましたね。のちに大河ドラマとなり、昌幸・丹波哲郎、信幸・渡瀬恒彦、幸村・草刈正雄という名優で固められた俳優陣が後の語りぐさとなった、あの作品です。その頃のぼくは、とにかく長大な物語が読みたい! 長ければ長いほど良い! という思いに駆られていた頃で、(栗本薫さんの『グイン・サーガ』もその頃に読んだ)そんな気分にこの作品はとてもかなうものでした。とりあえず「お江がでかい」ということは今も鮮明に憶えていますね(笑)

高校生の頃に今度は司馬遼太郎さんの『城塞』を読みましたが、これは何度も繰り返しボロボロになるまで読み返しました。上中下の三巻ものですが、真田家は中巻から登場します。最後、大阪城が落城し、幸村が戦死するまで、この人物が一人の優れた戦術家として圧倒的な劣勢の中、難局を覆そうとどんなにがんばったかが細かく描かれていて本当に好きな作品ですね。

戦国時代にはたくさんの魅力的な武将・名将がいて、中にはまだ語られていない武将も数多くいます。それら日の当たらない武将の中にあって、真田幸村(信繁)は例外的にむかしから高い人気と知名度を持つ武将として親しまれており、後世の評価という意味においては恵まれた(?)武将と言えなくもありません。その原因はよくわかりませんが、おそらく理由の一端には、大坂の陣で家康をあと一歩まで追い詰める活躍をしたという悲運さと対になったヒーロー性、なによりやはりその不器用な生き方が日本人に好まれるからでしょうね。

堺雅人さん演じる真田信繁改め幸村がどんな活躍をするか、今後の『真田丸』を刮目したいと思います!

最後にまたちょっとゲームの話を。
真田幸村は、ある意味『最強の武将』という称号が与えられているので、少し前まで歴史ゲームの世界では上杉謙信と並んでゲームバランスを壊してしまうくらいのチートキャラになってしまっていました。(最近は見直しが進み、少し違うのかもしれませんが)

ただ、謙信と違って登場するのがすごく遅いので、その意味ではなかなか活躍させづらいんですよねー。たいていは幸村が生まれてくる前にもうだいたい良い感じに天下統一を果たしちゃったりしてて、そもそも合戦の場がもうなかったり。

そんな意味でも妙にリアルな人物、今回は真田幸村のお話でした。

コンビニ 

2016, 10. 17 (Mon) 00:30


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すみません。前日に引き続き、怪我の話です。たんなる打撲と診断され、喜んでいたのですが、病院から歩いて帰ってきたのが祟ったのか、左のふくらはぎが酷い筋肉痛になり、まったく歩けなくなってしまいました……。

患部に体重を乗せると痛いのにひょこひょこ出歩いていたのがまずかったのかもしれません。よくサッカー選手が怪我をした脚を庇ってプレイしていて別の箇所を痛めるというのを見聞きしますが、こんな感じなのかなあと実感する(スケールは全然ちがいますが)と同時に、歩き方が変わるとこんなに脚に負担がかかるものかとおどろきました。にしてもあれか、ハンバーガーのせいか。やっぱり病院帰りにハンバーガー屋さんに寄ったのがいけなかったのか。

幸い、家の近くにはコンビニがあるのでなんとか食べ物には不自由しませんが、こんな風にとつぜん身体の自由が利かなくなると、ふだんの何気なくすごしていた生活や日常がいかにありがたいものか骨身にしみますね。神社巡りもとうぶん出来そうにもないし、しばらくは家で大人しくしているほかなさそうです。

こういうとき、主に生活面で頼りになるのが上述のようにいわゆるコンビニエンスストアです。ぼくもコンビニは好きでよく利用します。どちらかと言うと日中よりも夜に行く機会の方が多いですが、これはたぶん、気分転換とか外の空気を吸いたいといった要素もあるんでしょうね。書き物をしていて真夜中にとことこコンビニに歩いて行くことはよくあります。

買うものとしてはせいぜい缶コーヒーくらいですが、最近はちょっとした甘い物とかも美味しいですよね。ケーキとかシュークリームとか。各企業ごとになかなか競争も激しいようですが、一消費者としてはいろんな商品が開発されるのはうれしいです。コンビニユーザーの中には毎週欠かさずに新製品チェックをする猛者もいるらしいですが、こうして考えるとほんとうに日本のコンビニって便利だなあと思いますね。新鮮ですし、品揃えは豊富ですし、おまけに安全。海外だと、夜にホテルの部屋でちょっとお腹すいたなと思っても、出歩くのもためらわれるようなところって結構ありますしね。

もっとも、歩くのもままならない現状では、ぼくもじっとしているよりなさそうです。『真田丸』を楽しみにしつつ、夜まで仕事しようっと。

病院 

2016, 10. 16 (Sun) 00:30


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昨日の怪我ですが、結局痛みに耐えかねて行きつけの(というほど頻繁に行っているわけではありませんが)外科に行ってきました。先生に看てもらうと骨は折れておらず、打撲という診断でした。よかったー! 湿布と痛み止めを山ほどもらって帰ってきました。

余談ですがレントゲン室でレントゲンを撮ってもらったとき、ふと壁を見ると素敵な田園風景の絵が飾ってあり、ちょっとなごみました。気になったので家に帰って調べてみたらジョン・コンスタブルの風景画でした。きっと患者さんの不安な気持ちを穏やかにするためでしょうけれど、なんかいいですよね。こういうの。

ぼくはめったに病院へはかからないので、病院へ行くとちょっと緊張します。それこそ年に一度行くか行かないかくらいなので、なんとなく「新参者ですいません」という感じで小さくなってしまいます。おまけに家族揃って病院嫌いときているので、たまに身内の付き添いで行くときなど大変です。じっさいに行くと看護師さんも先生もみんな親切ですごく有り難いんですけどね。

病院と言えば待合室です。待合室というと、たいていソファーの正面にどーんと大きなワイドテレビが置いてあり、BS放送が流れていて、その前に元気なお年寄りがたくさんいらっしゃるというイメージですが、反面、読書にはなかなかいい空間です。昨日はデイヴィット・ハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』(ちくま文庫)という本を持っていったのですが、結構たくさん読むことができました。

この本は1950年代のアメリカ……現代に至るまでのこの国の政治体制や価値観、メインカルチャーや産業などの雛形が、このいわゆる『黄金時代』と呼ばれる年代にできあがり、そしていかに変質していったかをあらゆる角度から執拗に描いた作品ですが、とても面白いです。ハルバースタムは以前読んだ『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』もそうでしたが、読んでいて本当に引き込まれます。ただ人物を含め固有名詞がやたら多いので読んでいて滅茶苦茶頭が疲れますが。

その後、待合で名前を呼ばれて診察をしていただき、お薬をもらって病院をあとにしました。脚は大丈夫という先生のお言葉に気をよくして、帰りになぜかモスバーガーに寄ってモスチーズバーガーを食べてきました。

まあ、あまりぼくらしくない一日でしたが、こんな日もあってもいいかな……というわけで、病院にお世話になった秋の一日でした。

怪我 

2016, 10. 15 (Sat) 00:30

今日、久しぶりに物置の掃除をしようと朝からごそごそしていたら、段ボール箱をどかそうと持ち上げた拍子に使わなくなった仏壇がまっすぐ倒れてきて、足の甲を直撃しました。(はい、ドジです)

眼から火花が出るくらいの痛みが脳天を突き抜け、しばらく動けませんでした。幸い、ちゃんと靴は履いていたのですが、おそるおそるぶつけた箇所を見てみると親指のつけ根に凄い血豆が……。とりあえず湿布は貼っておきましたが、うーん、だんだん腫れてきたような。とりあえず指は動くので骨折はしていないと思うのですが……。
うう、痛いよー。

こんな怪我をしておいて言うのもなんですが、ぼくは身体は結構丈夫な方です。いえ、決して肉体的に頑強だというわけではないのですが、これまであまり大きな怪我や病気を経験せずにすんできました。

しかし、こんなぼくも一度だけ骨折をしたことがあります。それも少年時代ではなく、いい年をした大人になってからです。しかも骨折をした場所は日本ではなく、中国でした。とある機会があり、中国の北京へ観光旅行へ行ったときのことです。その頃ぼくは『時載りリンネ』の五巻『明日のスケッチ』を書き終えた直後でした。初稿をなんとか書き上げて編集部へお送りするや、寝不足の身体ですぐにスーツケースを抱えて空港へ向かい、飛行機に飛び乗りました。

当時、中国は北京オリンピックのまさに直前で、国を挙げてもの凄い勢いで開発が進んでいる最中でした。すっかり様変わりしていく街の様子を興味深く眺めつつ観光をしていると、つと北京の天壇公園というところで太極拳をしているご老人の集団に出会いました。どうも天壇公園という場所は市民の憩いの場となっており、朝のラジオ体操のように、太極拳をする方たちが毎朝多く集まるらしいのです。

「あなたもやってみませんか?」というガイドさんのすすめで、見よう見まねでおばちゃんたちに混じってゆったり太極拳をしていたら、ふと気づくと同行するツアーの客の方たちが全員いない! 一人取り残されたぼくはあわてて走り出しましたが、その途端視界がひっくり返り、ぼくは地面に叩きつけられました。どうやらぼくは道の段差に躓いて転んでしまったらしいのです。完全に寝不足からくる足下への注意不足でした。(つーか、ぼくがドジなだけですが)

転んだ拍子に右手の薬指を地面に強く打ち付けたようで、傷がずきずき痛みました。まあたいしたことあるまいと絆創膏を貼り、その後も観光を続けて帰国しましたがその後も痛みが引きません。痛いなりに戻ってきた原稿のゲラチェックをして、ようやくすべての改稿作業を終えた二週間後、病院に行ってレントゲンを撮ってもらうとものの見事に骨が折れていました。「なんでほっといたの!」と先生にはたっぷり叱られました。

結局、骨折は完治しましたが、握力を戻すリハビリにはけっこうかかりましたねー。いや、懐かしい思い出です。というか、やはり人間は健康が一番。怪我には十分気をつけなければいけませんね! 
というあたりまえの結論が出たところで今日は怪我についての話題でした。

と、痛いのを我慢してここまで書いてみましたが……うーん。やっぱり明日あたり、病院へ行ってみようかなあ。

水滸伝 

2016, 10. 14 (Fri) 00:30

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三國志については以前このブログにて取り上げ、自分の思いの丈を熱く語らせていただきましたが、三国志とならんでぼくが大好きなのが水滸伝です! 「中国四大奇書」とよばれる有名な作品群のうち、もう一方の雄ですね。(あと二作品は『西遊記』と『金瓶梅』。『金瓶梅』の代わりに『紅楼夢』を挙げる説もあるようです)

水滸伝はその魅力的な題材と相まって、日本でも吉川英治さん、北方謙三さんをはじめ、それこそたくさんの作家さんがこれを題材に小説を書かれています。ですが、ぼくがいちばん熱心に読み、影響を受けたのは柴田錬三郎さんの『柴錬水滸伝・我ら梁山泊の好漢』です。これは高校時代に読み、すっかり夢中になりました。いまだに大好きな作品ですね。

物語は北宋時代の末期、汚職官吏の親玉・高俅に無実の罪で公職を追われた元・八十万禁軍の武術師範・王進が都落ちし、ある村に滞在した折、そこにいた一人の青年史進が彼に武芸全般を学ぶところから始まります。

彼は史進に自分の腕前を世のため人のために使うように言って去りますが、あとは一気呵成、血湧き肉躍るという形容がぴったりの怒濤の展開が幕を開け、物語は進んでいきます。上述の史進に加え、林冲、魯智深、楊志、晁蓋といった面々が出会い、別れ、時に対決し、それぞれの好漢が物語に有機的に絡み合っていきながら梁山泊という天然の要塞に集結し、やがて悪徳官吏を打倒し、国を救うヒーローとなっていく様は目が離せません。とくにまだ無名の好漢たちが章ごとに主役としてその活躍が描かれる前半部分はいかにも「列伝」といった感じで、読んでいて本当にわくわくします。

もともと彼らは正義感の強い役人や軍人であり、国や政府に仕えていた、いわば公人です。それが不正を働く悪徳官吏たちの手によって貶められ、心ならずも悪漢として身を落としていく。この辺の構造はまさにピカレスク・ロマンの祖型といってよく、真の意味での悪漢小説といって過言ではありません。

それだけに今まで虐げられていた主人公達が反旗を翻し、これまでのさばっていた悪党どもをやっつけるくだりは本当に爽快です。なにせこっちは本物のワルですから本当に容赦がありません。この、一応正義の側なのにアウトロー感覚が全編通してみなぎっている感じが水滸伝の魅力でしょう。

ただ柴錬水滸伝は仲間が集まり、「さあ、これから」っていうところでおしくも物語が終わっているんですよね。一読者としてはすごく残念なのですが、一方でこの手の作品というのは、やはりばらばらだった仲間がしだいに集まっていくその過程までが面白いんですよね。いわゆるバンド漫画やアニメもそうですけれど、主人公のグループが成功するまで、成り上がるまでの課程がいちばん面白く、一度頂点へ上り詰めてしまったあとはそこはかとなく蛇足感が漂います。

水滸伝にしても、梁山泊に天に導かれた108人の好漢たちが勢揃いしてしまったあとは、ゆるやかな退潮が待っています。度重なる戦いでメンバーは戦死、または病死し、仲間達はどんどん減っていきます。そう、水滸伝の後半はわりと悲劇的な展開なのです。(もっともこのへんは水滸伝は一人の作家が書いた物語ではなく、口伝えの講談をまとめたような体裁を取っているため、後半の展開がやや荒っぽく、前半までのような格調高いエンターテイメントとしての雰囲気が若干薄れているせいもありますが)

でも、それを含めてもやっぱり水滸伝は好きなお話ですね。子どもたちに薦めると、(これまた例によって横山水滸伝)すごくおもしろがってくれます。

ちなみにゲームで言うと、ぼくは以前光栄から出ていた『水滸伝 天導一〇八星』というゲームが大好きです。平らのマップに基地を作り、牧場や居酒屋、商業施設などを建て、発展させていくという街作りゲームみたいなシミュレーションなのですが、それぞれ施設で働かせるとちょこまかと好漢たちが実際に働くというかわいい感じのゲームでした。

面白い題材だし、また水滸伝がゲーム化してくれたら嬉しいなあ、と願いつつ、今回は水滸伝のお話でした。

サッカーと武将と能力値と 

2016, 10. 13 (Thu) 00:30


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先日のロシアワールドカップ最終予選、日本対オーストラリアは1対1の引き分けでした。勝ってほしかったけれど、アウェーということを考えればまずまずという結果だったのかもしれません。

日本代表の得点は本田選手からパスを受けた原口選手のゴール。原口選手はルーキーの頃から見ていますが、気持ちで闘える良い選手になりましたね。資質を損なうことなく長所が伸びていくという、理想的な成長をしている稀有な選手の例ではないでしょうか。ぼくは浦和レッズでは阿部勇樹選手が大好きですが(ジェフ市原時代も含めて)、原口選手も好きでしたね。ヘルタでがんばってほしいです。

代表戦を見たあと、その興奮のままになんとなくやりたくなるのがいわゆるサッカーゲームです。学生時代はサッカー好きの友達と夜部屋に集まって一緒に観戦し、そのままの流れでプレステを起動させて対戦! みたいな空気になったものですが、いまは一人で見ることが多いのでそういうわけにもいきません。ウイイレもいつしか買わなくなってしまったし……(今はFIFA17なのかな?)サッカーゲーム自体、あまりやらなくなってしまいました。

もっとも、ああいうゲームは実際のプレイもさることながら、面白いのがエディットです。「エディット」というのはいわゆる選手の能力値や顔グラフィックなどあらゆるデータを自分好みに変えることですが、ぼくは昔からこれが大好きで、ゲームを買うと本編そっちのけでずっとエディットばかりしていました。(あるある、という方は結構いらっしゃるのではないでしょうか)移籍した選手の所属チームを最新のものにし、背番号を変え、先シーズンの成績を鑑みドリブル精度やパス精度を細かく設定する。しまいにはエディットだけで満足してしまい、肝心のゲームの方をろくにやらなかったり。

にしても、この「能力値好き」という奇癖(?)はいったいなんなんでしょうね。思うに、これって男性特有の特徴のような気がします。女の子でズラタンやレヴァンドフスキやネイマールの能力値をいじってニヤニヤしているという子の存在をぼくは寡聞にして知りません。(もしかしたらいらっしゃるのかもしれませんが)ああ、でも、好きな選手の顔グラフィックを自分好みに弄るという女性ならおられるかもしれませんね。ぼくもオリジナル選手をよく作って遊んだものです。

ぼくの場合、この能力値好きという傾向はサッカーゲームだけに留まりませんで、(もし数値が載っていなかったらWCCFもこんなに嵌まっていなかったと思う)光栄をはじめとする歴史シミュレーションゲームが好きなのも、たぶん根っこはその辺にあると思います。

『三國志』や『信長の野望』『水滸伝』をはじめ、システムソフトの『天下統一』(初代)の数値なんて全武将の軍事・内政値を完全に暗記してしまっていまだにほぼ諳んじられるますからね。(というか、十代の頃の一番瑞々しかった記憶力をこんなことのために使ってしまって果たして良かったのか……)その他、戦略シミュレーションゲームにおける戦車や戦闘機や艦船を初めとする兵器のデータ、装甲値、耐久力、移動力、武器ごとの破壊力、射程距離、コスト……そのありとあらゆる多彩な数値のなんと魅力的なことか。

きっと、今でもこうした「数値好き男の子」の存在がこの世に一定数あるのを、ぼくは信じて疑いません。今も日本のどこかで若い男の子達がある特定の数字やデータの連なりを眺めてニヤニヤしていることでしょう。その行為を無駄だとはぼくは一ミクロンも思いません。

だって、人生において何かに夢中になることは間違いなく素晴らしいことですから。

アニメにおける自転車 

2016, 10. 12 (Wed) 00:30


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少し前ですが、自転車を買いました。シティサイクル、通称ママチャリです。

もともとクロスバイクは一台持っていたのですが、最近忙しさのせいかあまり使わなくなってしまって(ほんとは忙しさのせいにしてはいけないのですが)、ずっとしまってありました。その上もう一台いるかな? とも思ったのですが、あれば便利かなと考え、購入しました。が、あるとやはり使うもので、けっこう重宝しています。頑丈なので気軽に乗り回せるのがいいですね。

もうじき冬ですし、路上を走れるのもあと少しですが、それまでに眺めの良いサイクリングロードとか走ってみたいですね(うんとあったかい格好して)。

さて、そんなぼくらの日常風景にすんなり溶け込む自転車ですが、フィクションの世界でも自転車が画面に現れる頻度はけっこう高いようです。(と、ここからアニメの話)とくにアニメーションにおけるこの乗り物の登場頻度はなかなかのもので、ぼくたちも数多くの作品で印象深いシーンを目撃しています。

アニメにおいて、キャラクターの最初の登場場面というのはそのキャラの印象を決定づけるとても重要なシーンです。そのため、どの作品においてもそのキャラを際立たせるためにいろんな演出を施しますが、自転車という乗り物の持つ運動性が「軽やかさ」や「優雅さ」といったポジティヴな言葉を連想させるせいか、かわいい女の子キャラクターが元気に自転車に乗って登場する作品は多いような気がします。

ぱっと思いつくだけでも、アニメ『アイドルマスター』では冒頭、制服姿の天海春香ちゃんが明けたばかりの空の下、自転車で駅に向かうシーンで物語は始まりますし、『ふしきの海のナディア』では第一話、ナディアが颯爽と自転車に乗って登場するシーンでは、ジャンが一目でナディアのことを好きになってしまうことでストーリーが動き出します。どうもぼくら男の子にとって、「自転車に乗る女の子」という存在はなんともふしぎな魅力を放っているようです。うまく言えませんが、チャーミングさが5割増しになる感じというか。

もっとも、自転車の持つ運動性はたんにかわいいキャラクターの愛らしさを際立たせるための働きをするだけではありません。時に、それは作劇や演出における重要なトリガーともなります。そう、車輪がその回転数を増すとき、物語のスピードもまた速度を増します。自転車が疾走、または暴走するとき、物語の局面は大きく変わるのです。

細田守監督の映画『時をかける少女』において、クラスメイトの友達が乗ったブレーキが壊れた自転車は踏切に突っ込むという暴走事故を起こし、それによって千昭くんは時間を戻し、今まで黙っていた自分は未来人であるという正体を真琴に打ち明けるきっかけとなりますし、ジブリの近藤喜文監督の『耳をすませば』では、早朝、とっておきの日の出を見せたくて自転車に乗った聖司くんが雫ちゃんを乗せて走り出すとき、お互いの気持ちをはすでに、最後の世界最高の告白にむかって勢いよく疾走しています。新海誠監督の『君の名は。』においても、間近に迫った隕石落下の厄災から地域の人々を守れるかどうかというクライマックスのシーンで、三葉ちゃんが力いっぱい漕ぐ自転車が重要な役割を果たしていました。その想いはやがて最後に美しい奇跡を生むでしょう。自転車はときに視聴者の感情を動かす力をも担うのです。

きっと、たぶんそれは自転車という乗り物が、今も昔も変わらぬ青春を示すアイテムだからなのでしょう。考えてみれば、自転車の二人乗りって学生時代だけに許される特権ですものね。そう、年頃の(恋に落ちた)男の子と女の子なら特に。

(それにしても、うーむ。日本の誇る三大青春アニメ―――凄まじい殺傷力を誇る胸キュンときめき鬱映画に、そろって自転車が登場するとは、自転車の持つリア充パワーおそるべし)

最後に、近年見た自転車に乗るシーンを描いたアニメ作品の中で、ぼくがいちばん胸に残った作品は『のんのんびより りぴーと』で、主人公のれんちょんが補助輪を外し、一生懸命自転車に乗る練習する第十話のエピソードです。

膝をすりむいても、転んでも、一生懸命練習をがんばるれんちょんもさることながら、それに手を貸さずにじっと見守る駄菓子屋のおねーちゃん(楓ちゃん)の姿、そしてラスト、ついに自転車に乗れるようになったれんちょんを見送るその優しいまなざしは本当に素敵です。

ボギー 

2016, 10. 11 (Tue) 00:30


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今回は通称ボギー。ハンフリー・ボガートのお話です。

また突然えらく懐かしい名前を出してきたなという方と、誰のことだがわからないよという方がいらっしゃると思いますが、ハンフリー・ボガートは二十世紀半ばのハリウッドで活躍した大スターです。いわゆる後に「フィルム・ノワール」と呼ばれる作品群で銀幕に鮮烈な印象を残し、今も根強い人気のある男っぽい俳優さんですね。

ぼくらが「ハードボイルド」と言ったとき、その脳裏になんとなく思い浮かべるイメージ……たとえばトレンチコートの私立探偵とか、拳銃とか、燻るタバコの煙とか、そういったイメージを一身に体現した白黒映画時代のハリウッドスターと言えばなんとなくおわかりいただけるかもしれません。

ぼくはこのボギーに入れ込んで、熱心に彼の出演する映画を見た時期がありました。もちろん今でも大好きで、この人の出ている作品は『好きな映画を置く心の棚』トップランクに位置しています。

映画に限らず、文学や音楽などもそうかもしませんが、何かあるジャンルに興味を持ち始めた頃、目の前に聳える膨大な作品群の前で途方に暮れるということがあります。こっちはまだ若く、何も知らないのに、世の中にはこんなにたくさんの優れた未見の作品がある。俺はこれからこれらすべてを時間をかけて一から観たり読んだりしなくてはならないのか……と気が遠くなるような想いと共に本屋さんの棚やDVDレンタルショップの棚を前に呆然と立ち竦むあの感じです。

ぼくも映画に本格的に興味を持ち、観直して見始めた頃、この想いに駆られたことがありました。しかもそのころぼくは同時に小説も書きはじめており、文学の領域においても読まねばならぬ過去の古典や未読の名作群が膨大にあって、その両者の狭間でほとんど息絶え絶えといった感じになっていました。

そんな折り、映画のジャンルにおいて見るときのよすがになったのが、このハンフリー・ボガートでした。ハリウッド映画が最も輝いていた時期の白黒映画―――その膨大な作品群の中で、彼の主演する作品はヒッチコックやジョン・フォードとならんで、ぼくにとって映画を観る際の一つの大きな指針となりました。彼を見ることを通して、ぼくは映画という豊かな鉱脈に触れることができたような気がします。その後、彼の奥さんの女優ローレン・バコールが書いた傑作自伝『私一人』(翻訳・山田宏一さん)を読んだりしていよいよ引き返せない深みに嵌まっていくのですが……それはまた後の話です。

でも、なんでよりにもよってこのおっさんだったのだろう? と我ながらときどき不思議に思います。思い返してみても、その辺の経緯はよく憶えていません。たぶん、ジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』で知った、あるいはウッディ・アレンの『ボギー! 俺も男だ』あたりで彼の名を見知ったような気もしますが、後者は笑って観ていた記憶がありますので、だとすればこれが優れたパロディであると同時にボギーに捧げた熱いオマージュでもあることに気がついていたということになります。いずれにせよ、そうした映画史におけるイコンとなって何十年を経てもなお、この俳優のオーラは当時と変わらぬ熱い魅力を放っていたということなんでしょう。

ちなみにこれはまったくの余談ですが、『そして夜は甦る』から始まる原寮さんの推理小説、探偵沢崎シリーズ(大好きなシリーズです)の私立探偵・沢崎は、ぼくは完全にハンフリー・ボガートをイメージして読んでいます。いい感じなんですよね。そうして読むと。

ハンフリー・ボガートのおすすめ映画といえばなんでしょうね? ボギーと言えばその男らしさ、タフネスぶり、そしてその強面の裏に隠された優しさとダンディズムが観る者を惹きつけるわけですが、やっぱり『カサブランカ』『マルタの鷹』『脱出』『三つ数えろ』あたりですかね。上記のイメージを一身に体現していた頃の作品ですし、全盛期のボガートのかっこいい姿を堪能出来るという点ではどれもおすすめなのですが、実はぼくは『麗しのサブリナ』の堅物兄貴役をやっているボギーがなんとなく好きです。オードリー・ヘップバーンも文句なしにかわいいし、大好きな作品ですね。

ラストの船上のシーン、お茶目なハンフリー・ボガートの演技がとても好きです。

こたつ 

2016, 10. 10 (Mon) 00:30


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子どもの頃、こたつにあこがれました。

あのぬくぬくとした形状、文字通り人を包み込むような暖かな雰囲気、ふとんとテーブルを合体させるという斬新だがどこか脱力したコンセプト……それらすべてに子供心に得も言われぬ魅力を感じたのです。しかし、我が家にこたつはありませんでした。
なぜだ! ぼくもこたつに入ってみたい。

「ぜひコタツを買ってほしい」というぼくの願いに対し、親は変な顔をしましたが、黙って買ってくれました。ぼくはおおよろこびで自分の部屋にこたつを置き、悦に入って毎日入っていました。そこでプラモを作ったり、本を読んだり。でも、なにかが違う。

そう、ご存じのように北海道ではあまりこたつは使わないのです。北海道は冬の寒さが厳しいため、住宅はたいてい集中暖房となっています。集中暖房というのは熱源を一カ所でコントロールし、すべての部屋をまとめて暖めるというシステムのことです。中の空気を丸ごと暖めてしまおうという設計思想のもとに建てられているので、北海道の住宅はきわめて機密性が高く、逆に言うとお部屋ごとに暖を取るという発想がないんですね。つまり、こたつはあってもあまり役に立たないのです。だって、入らなくても暖かいのですから。

たぶん、親はそのことをわかっていたのでしょう。ぼくも一冬か二冬使ったくらいで次第にこたつを使わなくなり、結局、そのこたつは単なるインテリアとなってしまいました。でも当時、無駄とわかっていながらこたつを買ってくれた親に今では感謝しています。たとえ一時期でも、少年期にこたつ体験を堪能することができましたから。

でもこたつってやっぱりいいですね。『のんのんびより』とか見てるとそう感じてしまいます。夜、こたつを囲んで団らんとか、猫がひょっこり入ってくるとか、冬蜜柑の皮をむきながら除夜の鐘の音に耳を澄ますとか、そういう情景にはやはり淡い憧れがあります。きっと、たんなる家具でありながら生活の場というか、そこを中心に会話や交流が生まれるという仄かな物語性がいいんでしょうね。テレビも人を集める作用はありますけれど、やっぱりそれだけだとちょっと味気ないですし。

モデルハウスとか観に行くと、最近は掘りごたつ形式になっているリビングテーブルとか(足下に床暖が入っている)、新たな形の家族の団らんをイメージさせるようなおしゃれなデザインのものもあって、見ていて面白いですね。

土地や地域によっていろんな過ごし方があり、暮らしの形がある……。むかしの記憶をたどりつつ、ふとそんなことを感じた秋の一日でした。

ビデオ 

2016, 10. 09 (Sun) 00:30




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今回はちょっと懐かしいビデオという規格のお話です。

今でこそDVD、ブルーレイが映画やアニメなど様々な映像作品を見るための基本メディアとして定着していますが、かつてはビデオこそが映像ソフトのほとんど唯一の規格フォーマットとして長く君臨していた時代がありました。

あのお世辞にもコンパクトとは言えない、ビデオテープと呼ばれるがさばる黒い箱こそが、映像作品を録画・再生するための唯一のよすがであり、好きな作品と親しむためのツールであった時代があったのです。それもそんなに昔のことではなく、今世紀初めの頃までのことです。世のシネフィル(映画好き)たちはあのテープを集めることに血道を上げ、自分の大好きな映画作品をコレクションすることにありったけの情熱を注ぎました。

ぼくもビデオテープに対する思い出や記憶を持っています。子供の頃のぼくにとって、「映画を見る」ということは映画館に行くか、ビデオを再生してそれをテレビで見ることと同義でしたから。当時はまだビデオレンタル、という言い方をしていたんですよね。

もっとも、ぼくの本格的な映画好きへの目覚めはわりと遅かったせいか、映画を真剣に、観直して見始めるようになって数年経った頃にはもうDVDという規格が登場しており、そのためか規格移行に際しての心理的抵抗感はほとんどなかったような気がします。というか、より綺麗に映画が見られる! やった、と単純に喜んでいたような記憶が……。(たしかクリント・イーストウッドのDVD版『ペイルライダー』の画調がすごく綺麗になっててうれしかった)ビデオテープのコレクションもそんなに持ってなかったですしね。

そんなぼくですからDVDへの鞍替えは早かったです。というか、今考えるとDVDという規格の誕生こそ、今なお続いている映像ソフトの収集癖、コレクション癖の元凶のような気がしてきました。(みなさんもお心当たりがあるのではないでしょうか。Amazonのボタンを思わずポチってしまう、あの魔の誘惑を。)たしかにDVDやブルーレイはビデオに比べて収納は半分のスペースですみますしね。

ただひとつ残念なのは、その時期に「どうせいつかDVDで出るんだから……」と処分してしまったビデオ作品の中に今あらためて見てみたい作品があったりすることです。DVD化が遅れていたり、されていても価値がレア化し、入手が困難だったりすると、たまにちくちく心が痛むことがあります。ううむ。やはり好きな作品は安易に手放してはダメですね。(今日の結論)

ちなみに、ぼくが子供の頃に「家のビデオで最も見まくった回数の多い映画作品」トップ3は、

『プロジェクトA』
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』
『風の谷のナウシカ』

の三本です。今も大好きな作品ですね。

初音ミク 

2016, 10. 08 (Sat) 00:30


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先日、街を歩いていて初音ミクのポスターを見かけました。ミクちゃんは結構季節には敏感のようで、よく見ているとシーズンごとにお洒落をするさまざまなミクちゃんが楽しめます。

今やすっかり歌手として、日本だけでなく世界各国のユーザーに親しまれている初音ミクですが、ぼくは最初このキャラクターのことがよくわかりませんでした。ボーカロイドという機能は理解したものの、それを皆が共有して楽しむという仕組みがよくわからなかったのです。凄くかわいいキャラだけど、いったいなんなんだろう、みたいな。

でもYouTubeなどでいろんな方が作った楽曲や映像作品を見るうち、たちまち好きになりましたね。なにより作り手の個性ひとつで、一人の歌い手にこんなにも幅広い表現が可能なのだということにおどろかされました。ああした作品を発表しておられる方は頭の中に浮かぶイメージを頼りに音や映像を作りだしているのですから本当にすごいですよね。

じつはぼくもミクちゃんは大好きで、ねんどろいどを一個持っています。(手にネギとかマイクとかギターとか持たせられる奴。)頭が大きくてかわいいので、一時期、机の上に長く飾っていました。

もっとも変な話ですが、ぼくが初音ミクの存在を一番身近に感じるのはネット上でも街中でもなく、千歳空港を歩いている時です。旅行から帰ってきた後、通路の左右にある綺麗なフルデジタルの広告パネルに映ったミクちゃんのイラストにでんと出迎えられたとき、「ああ、やっと帰ってきた」みたいな実感をおぼえ、あろうことか、国境も人種も軽く飛び越えてしまったこのキャラクターに対し地元意識すら感じたりします。

むろんこれはぼくの個人的な感慨であって、初音ミクちゃんには何の責任もないのですが、実は多少理由がなくもないのは、初音ミクというボーカロイドを作った会社さんは北海道札幌市にあるんですよね。ですので他の地域より初音ミクの存在になじみがあるというのは土地柄としてあるかもしれません。

札幌の路面電車には、いわゆる『雪ミク電車』という毎年期間限定で走る特別車両があり、観光客の方が多くいらっしゃいます。ミクカラーでかわいらしくラッピングされた電車がことこと走るところはとてもかわいらしいです。(乗っているならともかく、外から眺めるぶんにはすごく寒いですが)

例年は走っているところを眺めるだけですが、今年はぜひ乗ってみたいなあ。

霧の中の風景 

2016, 10. 07 (Fri) 00:30


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冒頭、家出を決意する姉と弟の後ろ姿から物語は始まります。路上は暗く、夜の駅は物々しい雑踏と喧噪に包まれています。お姉ちゃんの方は12、3歳、弟に至ってはまだ小学校に上がるか上がらないかぐらいの年齢でしょうか。もこもこに着ぶくれし、よちよち歩くそんな弟の手を引いて、姉はお父さんがいるというドイツを目指し、夜の列車に飛び乗ります。

年上の女の子と幼い男の子のコンビがまだ見ぬ世界へ旅に出る。先日見たテオ・アンゲロプロス監督の『霧の中の風景』の冒頭、このシーンを観た時点でぼくは五億点をつけました。(ライムスター宇多丸さん流)本当に大好きなんですよね。こういうシチュエーション。

それにしても、「お姉ちゃんと弟のコンビ」というのはどうしてこうも我々の(と、言い切ってしまおう)心をぐっと掴むのでしょうか。M・ナイト・シャマラン監督の『ヴィジット』、ファン・カルロス・フレスナディージョ監督の『28週後……』もそうですが、年頃の女の子(美人。しかし本格的な成長はまだこれから)が、ちっちゃい弟(ナマイキだったり、口が達者。でもかわいい)とふたりでリュックを持って旅に出る。行き先は多くの場合、未知の街であったり、知らない土地だったりします。

ぼくはむかしからこの「お姉ちゃんと弟コンビ」ものが大好きで、こういう作品があると思わず身を乗り出して見てしまいます。上に上げた作品も、ジャンルこそ違えどどれも大好きな作品です。(ホラー系・ゾンビ系がふたつも入っていますけど)

思うに、これが逆の「お兄ちゃんと妹」という関係ではダメなのでしょうね。兄と妹、つまり男の子の側が年上の立場になってしまうと、物語がやや秩序めくというか、『姉弟の旅』というテーマが持つ淡く、幻想的な雰囲気が失せ、急にリアルな、別の主題が派生してしまうような気がします。(たとえば『火垂るの墓』みたいな。)なによりその兄妹の関係は深まるにつれ、疑似恋愛的な匂いを帯びかねません。それはそれですばらしい物語ですし、また美しい作品もあるのですが、子ども同士が手を取り合って一緒に旅を繰り広げるという個人的な世界には、やはり姉と弟という組み合わせがぴったりくるような気がします。

そうした映画を観ていると、多くの場合、弟は邪魔であまり役に立ちません。(ちっちゃいんだから無理もありませんよね)行方不明になったり、足が遅かったり、非力だったりと、本来ならか弱い存在であるはずの女の子が、がんばって守ってやらなくてはならないほど足手まといな存在です。(ホラー映画だと一度や二度、この子のせいでピンチになる。)しかし同時に、姉もまたこの弟に守られているのです。

多くの作品の場合、弟は姉が失いつつあるイノセンスの象徴です。お姉ちゃんは弟より一足先に大人になりかけており、そのことを自覚しつつも、そんな自分を少し疎ましく思っています。でも弟といっしょにいる限り、お姉ちゃんは「姉弟」という安全で快適な少女時代に留まっていられる。つまり姉は弟を守り、抱きしめつつ、それによって精神的な担保を得ているのです。

しかしその弟の力を持ってしても、お姉ちゃんが大人の世界へ移行していくことを押しとどめることは出来ません。いずれ姉は弟とは別な道を行き、自分の主題と向き合うことになるでしょう。思うに、「旅」というもしかしたら自分の世界観が一新されてしまうかもしれない未知の世界に触れる体験をしつつ、同時に懐かしくあったかい世界も身近にある、そのあやういぎりぎりの均衡こそがこの『姉弟コンビもの』の魅力なのかもしれません。

『霧の中の風景』も話の筋だけを追えば、それほど複雑な話ではありません。会ったことのないお父さんに会いに(途中に入るモノローグがいい感じ)、姉と弟が列車を乗り継いで旅をする。本当にそれだけです。途中、親切な演劇志望の青年に会ったり、いろいろ辛い目に遭ったりもしますが、カメラはひたすら旅をするふたりを淡々と追いかけていきます。そして全編に漂う寓話のような映像と詩的な世界観は本当に美しい。

テオ・アンゲロプロス監督はギリシャの名匠で、惜しくも先年交通事故で亡くなられました。どちらかと言えば大作が多いお人(二時間超え三時間超えはざら)で、まとめて観るにはけっこうきつい監督ではありますが、その映像のイメージはぼくも大好きな監督です。今回久しぶりに『霧の中の風景』を観ましたが、いや感動しましたね。やっぱりむかし一度観ただけでは映画はわからない、なによりもったいないと感じた作品でした。

お世辞にもエンターテインメントとは呼べない作品ですし、万人向けとも言えない作品ですけれど、おすすめです!



神社 

2016, 10. 06 (Thu) 00:30


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散歩するときは、「とりあえず近くの神社まで」というのが最近の歩く目安です。幸いぼくの家の近所には(と言っても徒歩5キロ圏内ですが)手頃な神社がいくつかあり、そこまで歩いて行くという気分で出かけることが多いですね。

別に散歩なのですから目的地を定める必要はありませんし、仮に定めてもべつに近くの公園でもスーパーでも構わないのですが、神社というのはなんとなく気分的に収まりのいい場所なので、仮の目的地にしてしまいます。

たぶん神社には『お参り』という行為が自動的に付随するので(神社に行ってお参りせずに帰ってくる人はそれほど多くはないでしょう)、精神的にささやかな達成感があるのかもしれません。かくいうぼくも神社に行ったら必ず手を合わせて帰ってきます。お賽銭もちゃんと投げ入れます。

こうして訪ねる神社はどれも規模の小さなもので、本当にその土地に根付き、寄り添ってきたという感じが伝わってきます。境内にはむかし、お祭りの時などに使われたのでしょう。子ども相撲のための小さな土俵の跡があったり、絵馬殿があったり、小さな申し訳程度の社務所があったりします。でも大抵は綺麗にお掃除されていて、毎日人の手が通っているというのが感じられます。神社は心が静まりますし、鳥居を潜るときの、ちょっと背筋が伸びる感じは好きですね。

ただひとつ不思議なのは、なじみの神社で一度も猫の姿を見たことがないんですよね。「神社の境内といえば猫」というくらい、アニメやフィクションの世界では日当たりの良い境内に猫がひなたぼっこしているという描写は定番ですが、野良であれ、飼い猫であれ、お参りの時に猫に遭遇したという経験はありません。うーむ。一度は見てみたいと思っているのですが。

いよいよ寒さも本格的になってきましたし、出かけるの時に喉元にマフラーが欲しくなるのももう時間の問題でしょう。猫に会えるかどうかはわかりませんが、風邪を引かないように気をつけて、またお参りに行きたいと思います!

旅行 

2016, 10. 05 (Wed) 00:30


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旅行にいい季節になりましたね。郵便受けによく旅行会社から分厚いパンフレット入りの封筒が送られてきますが、それをぱらぱらと眺めると秋の紅葉巡りとか、豪華絢爛食べ尽くしとか、日本各地の綺麗な風景写真と共に胸湧く惹句が踊っています。

ぼくは国内旅行はあまりしたことがありません。海外は結構行っている方だと思うのですが、反対に国内の旅行は行った経験がほとんどないんですよね。学生の頃に勢いに任せて友人同士で車に飛び乗ってあてもなく走ってみる(水曜どうでしょうみたいに)、などということもあまりしたことがないため、みんなが一度や二度訪ねたことがあるような有名な観光地や名所も見たことがなく、その意味ではそんな自分に軽いコンプレックスを持っています。

北海道というのは特殊な場所で、妙な帰属意識というか地元意識みたいなものがあります。人間、誰しも己の住んでいる場所に愛着を覚えるものですが、本州と海を隔てているという土地柄のせいか(四国も九州もそうなんですけど)、それとも内地(!)と遠く隔たっているというその心理的距離感のせいか北海道に住んでおられる方には特にそれが強いような気がします。極端な話、本州に行くのも海外に行くのも同じじゃん、みたいな感じでしょうか。一度飛行機に乗っていく場所ならもう全部おんなじだし、みたいな。もしかしたらそんな心理が国内の観光地を必要以上に遠いものにさせているのかもしれません。

こんなぼくですが、今年は念願叶って京都に行くことができました。いや、素晴らしかったですね! 欲を言えばもっと時間をかけてじっくりいろんな場所を見たかった……。でも四条大橋や鴨川の流れを見たり、夜の街の雰囲気や表情を味わうことが出来て良かったです。ぜひまた行きたいですね。

でも、どうせ観光するならなにか取っかかりというか、精神的に興味や好奇心の持てるなにかを胸に抱いて行った方が絶対に楽しいですよね。それだけで俄然気合いの入れ方が変わってきます。ぼくの場合は、やっぱり歴史かなあ。史跡めぐり、城巡りが好きですし、戦国武将や幕末の志士のエピソードにちなんだ場所はいろいろ巡ってみたいですね。司馬遼太郎さんの小説を読んでわくわくしてたころ(というか、今でも十分わくわしますが)を思いだし、文庫本を片手に小説の舞台となった場所を見て回りたいなあ。しみじみ。

……と、旅行のパンフを眺めつつ多少現実逃避に入っている清野でした。

小津作品 

2016, 10. 04 (Tue) 00:30


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先日、ちくま文庫から出ている中野翠さんの『小津ごのみ』を読みました。いや、すごく面白い本で一気に読んでしまいました。

この本は小津作品の大ファンであるコラムニストの中野翠さんが小津作品について様々な角度から語ったエッセイをまとめたもので、全編通して中野さんの小津作品に対する愛と情熱が溢れています。

小津作品というとヴィム・ヴェンダースをはじめ海外でも影響を受けた監督さんが多いせいか、やたら評論や解説本が充実している印象がありますし、ぼくもわりと読んでいる方ですが、この本は中野さんの女性ならではの視点、ドンゴロスのタイトルバックについての考察から始まって、着物の柄や女優さんのファッション、インテリアにいたるまで鋭くも楽しい視点がちりばめられており、読んでいて本当に面白かったです。(もっともこれが罠で、この手の素敵な本を読んだあとは絶対に本編を全部見返したくなるという無間地獄が待っているわけですが……)

ぼくは黒澤監督の作品も大好きですが、小津安二郎監督のも同じくらい好きでよく見ます。ただ、黒澤明監督の作品をそのフィルモグラフィー(『姿三四郎』から『まあだだよ』まで)を通してわりとまんべんなく見ているのに対し、小津監督作品は原節子さんが出てくる『晩春』『麦秋』『東京物語』のいわゆる『紀子三部作』ばかり繰り返し見ている気がします。カラーになって以降の作品もたまに見ますが、戦前の作品やサイレント時代の作品についてはもっとしっかり見なきゃな、と思いつつ、ついいつもの定番の作品に手が伸びてしまうという状況が続いています。(まあ、これについてはブルーレイ化やニューデジタルリマスター化されている作品を綺麗な画像で見たいという想いも手伝っていますけれど)

でも小津作品ってなんであんなに見ていてリラックス出来るんでしょうね。見ているだけでほんとうに幸せな気分になります。

余談ですがぼくは杉村春子さんが大好きで、彼女が画面に登場するだけで、もうすっかり嬉しくなります。役どころとしては、だいたいがちょっとそそっかしかったり、お節介だったり、世話やきだったりする叔母さんなのですが、この方が出てくるだけでなんとなく画面に明るさと華やぎが出てきて、雰囲気がユーモラスな感じになるんですよね。男優で言えば中村伸郎さんと宮口精二さんも好きで、ちらっと脇に出てくるだけでも何とも言えず得した気分になります。

いつか小津作品について一度本格的に書いてみたいと思うのですが、うーん……その力量が自分にあるとは到底思えないし、むずかしいなあ。でも一映画ファンとして大好きですし、これからも小津安二郎監督の作品を長く楽しんでいきたいですね。

ピザ 

2016, 10. 03 (Mon) 00:30


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最近、順調に体重が落ちていっています。順調、と言ってもべつにダイエットしているわけではないですし、普通に生活しているつもりなのですが、自然と体重が落ちていくのです。

考えてみればある意味望ましい傾向なのですが、でもあまり急に痩せすぎるのもよくないので少し気をつけないといけませんね。でも忙しくなってくると(あくまで自分比、という意味ですが)あんまり食事を摂りたいと思わなくなってくるんですよね。コーヒーとかの消費量は増えるんですが。うーむ。なんとかしないと。

人間、誰しも年を経れば食生活の変化を自覚するようになります。ある年齢にさしかかると、それまで好きだったものが苦手になったり、逆に嫌いだったものが突然食べられるようになったりするという、あれです。

ぼくは二十歳を過ぎた頃、とつぜん梅干しが大好きになりました。それまではご飯の上にのっていたら、慎重に箸でつまんでよけていたのに(染み出してご飯つぶについた色もイヤだった)、ある日食べてみたらこの世にこんなうまいものがあるのかと感動し、以来すっかり好物の一つになりました。紀州や遠州の美味しい梅干しを探しては、わざわざ取り寄せたり。今も食膳の定番メニューです。

反対に最近はラーメンが少し苦手になりました。道産子の端くれとして札幌味噌ラーメンが大好きで友人とよくおいしいラーメン屋さんを探しては食べ歩いていたのですが、最近はあまり食べません。いや、食べている最中はすごくおいしいのですが、お店を出るとなんとなく苦しく、その日はもう何も要らないという感じになってしまうので、あまり食べなくなってしまいました。いわゆる「食いだめ」のきかない(できない)人間は、一日のどの時間帯に何を食べるのか、というのが意外と重要だったりするのです。

そんな中、ぼくが比較的今も昔も変わらずに好きなのがピザです! ピザって美味しいですよね。ふんわりチーズのかかっているサラミのピザとか最高です。最近はおいしいお店がふえたようで、いや、まったくいいことです。ただ料金はやっぱりちょっと高めですね。もうちょっと安くなってもいいと思うんだけどなあ。

ちなみにこれはまったくの余談ですが、遙か昔、イギリスのロンドンに旅行したとき(まだEU加盟前)、あまりの食事の厳しさに辟易し、近くのビザ屋で旅行の間中ピザを買い続け飢えをしのいだのは良い思い出です。ピザってあまり外れがないんですよね。

ピザでも食ってろ、とは良く聞くネットスラングですが、ぼくは痩せててもピザを食べます。でも蕎麦も好きです。

地震 

2016, 10. 02 (Sun) 00:30


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地震はこわいですね。テレビを付けるとたまに震災に遭われた地域のその後などを追ったドキュメンタリーなどが放送されていたりしますが、それを見ていると痛ましくて到底人事とは思えません。ぼくの住んでいる地域は幸いこのところ大きな揺れはないですが、この島国に住む者の一人としては、いつ何が起こるかわからないという地震に対する危機意識は常に持つよう心がけています。

地震があった直後はよくお店の店頭から防災グッズがなくなるといいますが、やはり防災関係の品物は平時から揃えておいた方が心強いですよね。ぼくも普段持ち歩くバッグの中に防災シートや小型の懐中電灯など何点かいざというときに役立ちそうな品を入れてありますが、一方、家での地震の備えや水・食料の備蓄に関しては正直あまり用意出来ていないな、というのが実感です。

でも備蓄ってむずかしいですよね。特に難しいのが食料です。食品は賞味期限というものがあるため、大量に買ってストックしておくということができません。「よし!」と一念発起して、非常用レトルト食品を一度にたくさん非常食や保存食を買っても賞味期限切れはまちがいなく三年後や五年後にくるわけで、「でも、その間に地震がなかったらこれ無駄になっちゃうし……」みたいな、小市民的な発想からなかなか購入に踏み切れなかったり。

たぶんこの場合一番賢いやり方は、非常用の食料を一度に全部揃えてしまうのではなく、年度をずらして少しずつ補充していき、賞味期限切れ間近なものは自分で開封して少しずつ食べていき、そのぶんだけまた同じものを用意するというやり方なのでしょう。しかし、わかってはいてもいざとなるとなかなか実行しづらいんですよね。
ううむ。なんとかしないと。

テレビを見ていて緊急地震速報のテロップが画面に流れることも珍しいことではないですし、ご近所で声を掛けあったり、避難経路や地域の最寄りの避難所の場所をきちんと調べておくなど、やはり日頃からきちんとした防災意識を持って生活することがいちばんなんでしょうね。

とりあえずぼくも数年前に買った乾パンを消費し、新たな備蓄をはじめることにします。まあ、そうした備えが無駄になることが本当に何よりなんですけれど。