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お料理 

2016, 09. 30 (Fri) 00:30


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こんなぼくでもたまにはお料理をします。そんなとき、強い味方になってくれるのがクックパッドなどのお料理サイトです。

ネット上で料理の作り方を調べられるようになってから料理を作る時の心理的敷居がずいぶん下がったような感じがします。男の人は特にそうだと思いますね。レシピがわかりやすくなりましたし、写真があるだけで「なるほど、こんな感じか」と調理の課程のイメージがしやすくなりましたから。まあ、言葉を換えればこれまで存在した料理本がネット上に置き換わっただけなのですが、やっぱりふつうの男の人が書店の料理本コーナーに行って本を探すのは心理的な壁みたいなものがけっこうありますからね。かくいうぼくもネット検索で気軽にお料理のレシピを調べられなければ、台所に立ったり、料理にチャレンジすることはもっと難しかったかもしれません。

もっとも、では本格的に料理への道に歩み出したかというと全然そんなことはなくて、時々食べたいものを見よう見まねで作るだけです。でも今まではそれすらもしなかった(できなかった)のだから、ぼくにしては大いなる進歩です。予想外に上手く出来たときは「俺って天才かも」とかひそかに思ったりします。まあ馬鹿ですね。

こんな風に自分ひとりで作って食べて喜んでいるときは何の問題もないのですが、ちょっと困るのは家族や身内など知り合いに料理を振る舞ったりするときです。これはプレッシャーですね。自分一人なら少々タマネギが焦げていようが、胡椒が多すぎだろうが自己責任ですし、何の問題もありませんが、人様が食すとなればおのずと話は変わってきます。以前、日頃お世話になっている方に焼きそばを振る舞ったことがありましたが、いやー緊張しましたね。ピーマンを炒める手つきにも思わず力が入るというものです。まあ、それだけに「おいしいよ」と言われたときのよろこびはひとしおでしたが。(たとえお世辞が入っているにしても!)

いよいよ秋。これからはいろんなお鍋がおいしい時期に入ってきますし、またがんばってレパートリーを増やそうかなあ。
もちろん、最初の実験台は自分で!

評論・批評 

2016, 09. 29 (Thu) 00:30

アニメ、映画、演劇、文学……それがどんなジャンルであれ、評論や批評というものはむずかしいものです。ぼくも当ブログにて何度か映画について評論めいた文章を書いたことがありますが、やはり難しいですね。

たんなる愛情告白ではなく、信仰告白でもなく、(ぼくはわりとそうなってしまいがちですが)、あるいはただ貶すのでもなく、きちんと対象となる作品と距離を取り、作品のあらゆる角度から光を当て、その作品が秘めている輝きや本質のようなものを抽出し、読み手にむかって提示する―――映画の時も少し書きましたが、それまで未見だった作品を思わず観たくなったり、読みたくなったりする……そうした力を持つ評論こそが本当にいい評論ですし、素敵な評論だと思います。もちろん言うは易く、行うは難し。いざこっちが書く段となると、そうした評論はきわめてハードルが高く、頭を悩ませるところなのですが。

では評論をする側ではなく、される側の立場としてはどうなのでしょうか? もちろんこれはうれしいものです。ぼくも身に覚えがありますが、自分の作品を読んでくれて、しかも感想や評論を書いてくれる人までいるということは物書きとしてこんな嬉しいことはありません。特に作者本人が気づきもしなかったことに光を当ててくれるような批評はありがたいですし、励みになりますね。

むかしの話で恐縮ですが、拙著『時載りリンネ』の第一巻『はじまりの本』が出版されたとき、ネット上のとあるサイトでライトノベルの感想や評論を行っている方がこの本を取り上げて下さり、その書評の中でこの物語の主人公は女の子の脚ばかり見ている、と指摘されているのを読んだことがあります。いや、びっくりしましたね。なぜならぼくはそんなことを、一度も思って書いていなかったからです。でも、当たっている。

このリンネという作品は、久高という小学六年生の男の子の一人称視点で叙述されている物語で、「久高の視点」は、当然、作者であるぼくの視点と言うことになります。つまり、書き手であるぼくは自分でも気づかないうちに一生懸命せっせと女の子の脚ばかり描写していたわけで、そのことをずばり指摘されて、素に近い驚きを感じました。

今振り返ってみると、その驚きの中には「なるほどなあ」と思い当たる、あるいは腑に落ちる感覚とともに、自分の中のフェティッシュな部分を正確に言い当てられた新鮮さ(つーかお前の女の子好きはバレバレだ、と言う方もおられるかもしれませんが)が含まれていたように思います。まさにこれこそ評論の力に他なりません。や、この評論を読んですごく嬉しかったですね。滅茶苦茶恥ずかしかったですけど。

(ただひとつ言い訳させて戴くと、「女性の脚」というのはわりと物書きとしては描写しやすい部位ではあるのです。……と、ううむ。我ながら苦しい言い訳。)

同じような経験はリンネの第三巻『ささやきのクローゼット』でもありまして、これまたどこかのネット上の書評で、ある方がこの作品の構造について言及されていたときのことです。

この作品『ささやきのクローゼット』は主人公であるリンネがある日、それを扉に付けるとたちまちその扉が不思議な世界に通じるドアに早変わりするという『魔法のドアノブ』を手に入れ、それを自分の子ども部屋のクローゼットの扉に取り付け、異世界と自分の部屋を母親に内緒で行ったり来たりする、というお話でした。そしてその書評はこの作品の構造が、アニメ・劇場版ドラえもん第二作『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』の構成のそれとよく似ていると端的に指摘するものでした。

この評論を読んだときもぼくはびっくりしました。なぜなら、この「似ている」と指摘された『のび太の宇宙開拓史』はぼくが子供の頃生まれて初めて映画館で見たアニメ映画(漫画映画)であり、当時本当に大好きな作品だったからです。そして、そんなことはその時まで完全に忘れていて、むろん『ささやきのクローゼット』のプロットも構成も、『宇宙開拓史』を念頭に置いて書いたものではなかったからです。

そうした経緯にもかかわらず、この二作品に構成や物語の展開に共通する点が多い、という書評を読んだとき、ぼくは本当に嬉しくなりました。それは少年時代を振り返る懐かしさとともに、数十年という歳月を超えてかつて自分が感動を受けた作品と似た作品を小説に書き上げることが出来たというよろこび、さらにそうして得た作品に対する想いや情念は時を継いで人を継いで脈々と続いていくのだ、というたしかな実感のようなものを感じたからだと思います。

上記の書評はぼくの中に眠っていた個人史を見事に引き出してくださった評論としてとてもありがたく思っていますし、いい思い出ですね。それでは自分はと問われれば、自分もそういう力のある評論を書いてみたいと思いますが、やはりハードルは高そうなので、せめて作品の方でかつて少年時代の自分が影響を受けたり、寝食を忘れて読みふけったような作品に少しでも近づけるものを書いていきたいですね。
ちょっとずつ、たとえ、一歩ずつでも。

開拓の村 

2016, 09. 28 (Wed) 00:30


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今日、お天気がよかったので、脚を伸ばして北海道開拓の村まで行ってきました。

『開拓の村』は野幌森林公園の側にある野外博物館で、北海道開拓当時の学校や駅、郵便局などの建物が復元され、あたかもその一画だけ明治時代に戻ったような街の景色が広がっている見学コースです。歩きながら散策出来て、当時の旅館や床屋さんなんかがそのままの状態である(野田サトル先生の漫画、『ゴールデンカムイ』の舞台として出てくる鰊御殿とかもあります。)ので、結構楽しめます。札幌に住む人にとってはわりとおなじみの場所ですね。というのは、たいてい小学生の時の社会科見学などで一度は連れてこられるからで、今日も体育帽を被った小学生たちが先生に引率されてたくさんきていました。

北海道以外の場所にお住まいの方にはわかりにくいかもしれませんが、北海道ってやはりむかしの史跡が少ないんですよね。(歴史の経緯を考えたら無理もないのですが。)だから明治の頃のものであっても、こうして当時を偲ぶ建物がそのまま現存しているのはとても興味深いし、見ていて面白いですね。実際、子どもを連れて行くと飛びはねて喜びます。

もっとも、明治時代の頃であっても今からゆうに百年以上昔の時代の建物ですから、小さい子はなかなか「なつかしい」という感慨を抱くまでにはいかないようです。「むかしの家だよ」と言っても、今自分たちが住んでいるマンションやお家とは接点を見つけられないようで、完全に別物として見てますね。かくいうぼくも、懐かしさを感じるというよりは、かろうじて記憶の片隅に引っかかっている幼い頃に見た古い祖母の家など、昔の家屋の間取りや情景を思い出しつつ当時の人たちの暮らしぶりを想像する、みたいな感じになってしまいますね。まあ、それだけ現代では昔の景色や当時の建物はもの凄い勢いで淘汰され、駆逐されていっているということなんでしょうね。

森林公園の方も歩いてきましたが、早くも木々が黄色く色づき始めていました。紅葉なんてまだ先だと思っていたのに、このぶんでは意外と早く見られるのかもしれません。

たぶん、今年最後の真夏日、澄んだ青空の下で見学した北海道開拓の歴史でした。

三国志 

2016, 09. 27 (Tue) 00:30


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けっこう腹黒い孔明先生


三国志は好きです。

好きです、というか、もうぼくを構成する要素の何割かは間違いなく三国志で出来ています。少年時代から思春期にかけて、いわゆる人生で一番多感な時期を、ぼくはこの昔の中国の歴史物語にまみれてすごしました。

もっとも、そこまで大げさでなくても、ある世代の男の子が友人や仲のいいクラスメイトとの共通の話題、というか、必ず一度は通る『男の子ワールド』のいわば代表格のひとつとして三国志の世界はあるような気がします。もっとも、近ごろは女の子の中にもすごく史実に精通している子がいたりしてびっくりしますが。

一口に三国志と言っても今やその世界は広大で、最初に親しむことになったきっかけは様々だと思うのですが、ぼくの三国志の世界観は、横山光輝さんの漫画『三国志』全60巻と光栄のゲーム三國志(初代~Ⅳくらい)によってできています。いわゆる演義ですね。ドラクエでもウイイレでもあるいはMMOでも、なにか一つのゲームを倒れるまでやったことがあるという体験をお持ちの方はいらっしゃると思いますが、ぼくの個人史で言うと『三國志』シリーズがそれに当たります。いや、楽しかったですね。だんだん遊び方が込み入ってくると、許褚とか文醜とか知力の低い武将の知力を90以上にして軍師にして助言させたりして。(や、まったく内容のわからない方、今回はどうもすみません)

でも振り返ってみると、三国志って以前はこんなにメジャーな存在じゃなかったような気がします。クラスの女の子で、三国志の話が出来る子なんていなかったですし、(いやひょっとしたら詳しい子がいても、慎み深く隠していたのかもしれませんが)三国志に詳しい子って、クラスでも数人くらいだったと思います。ぼくの実感では『三国無双』というゲームが出、漫画の『蒼天航路』が始まったあたりから、三国志の世界が広く一般にまで広まったような気がします。今も三国志は子どもたちを引きつけるアイテムになりますね。漫画とか読ませてあげると、すごく喜びます。

ぼくの好きな武将は誰かなあ。(なんか中学生の会話みたいですね)
今の子供たちに聞くと、たいてい「関羽!」とか「趙雲!」とか言う返事が返ってきます。子どもはやはり強いものに惹かれる傾向があるようです。(でも呂布は全然人気がない)ぼくも中学生くらいの時はやはり趙雲や姜維とかが好きでしたね。いいエピソードの持ち主ですし、なんてたって顔グラフィックが格好いいですし。今なら誰でしょう。うーむ。苦労人の魯粛さんとかかな。
(ちなみにここまで書いてきて、使用している一太郎では三国志の武将の名前変換が全滅だということが判明。面倒くさい!)

ちなみにこれも明かな余談ですが、三国志に限らず歴史に詳しい女の子ってモテるでしょうね。男の子にしてみれば、身近な女の子がそういう話に詳しかったらすごくうれしいですもの。(まあ、そういう子にモテてもうれしくないわ、という女性陣の声は当然あるとは思いますが)

ううむ。最後はいささか身につまされるオチになったところで、今回は三国志のお話でした!

眼鏡 

2016, 09. 26 (Mon) 00:30


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少し前になりますが眼鏡を新調しました。

新しい眼鏡が届き、それまで使っていた眼鏡をどうするか迷いましたが、結局捨てずに併用することにしました。十年近くかけ続けたもので、もういい加減フレームも良い感じにひん曲がり、すっかり色落ちもしているのですが、やはり長年使い続けたものですものね。

眼鏡に限らずぼくは全体に物持ちがいい方で、気に入ったものはしつこく使い続けるタイプです。(あるいはまったく同じものを買ったりとか)体型もあまり変わらないので、二十代、へたすりゃ十代の時に買ったジーンズとかふつうにはけます。もっとも衣類に関しては流行などがありますから、そのまま着ているわけではないですが、やろうと思えば上着もズボンも一昔のものでかためた「服装だけタイムスリップ」とかできるかもしれません。やってみたら面白いかも。

眼鏡で言うとフレームも同様で、一旦気に入ったタイプのものを見つけると、新調するときも似たような眼鏡フレームを探してしまいます。(でもこれは、長年眼鏡をかけ続けている人ならわりと当てはまる傾向かも)
せっかく新調するのだからもう少し別なものになさっては? などと店員さんに勧められても、結局似たようなものを選んでしまうことがよくあります。ひところ、スポーツする時用の眼鏡なども含め、三つくらいの眼鏡を掛け替えしていたときがありましたが、結局こういうのって、いちばんよくかける眼鏡って自然と決まってしまうんですよね。ですから上の古い眼鏡もそのうち自然と使わなくなっていくのかもしれません。

でも、眼鏡屋さんに行くと楽しいですね。学生時代は鼈甲の眼鏡なんかに憧れてよく試着(?)とかしたものです。あと明治大正の頃の文豪がかけているような丸眼鏡とか。いわゆる眼鏡男子の方のかけるキリッとしたタイプの眼鏡も結構好きです。眼鏡ひとつで顔の印象が変わるといいますが、本当ですね。

一応コンタクトも持っているので、外出するときなどするときもありますが、でもぼくはやはり眼鏡派です。なんといっても楽ですし、かけているときが一番自分らしい感じがしますしね。もちろん本を読むときや原稿を書くときもかけてますし、生活必需品ですね。

朝、目が醒め、寝ぼけ面で枕元の眼鏡を探して鼻先に載せるとき、ぼくの一日が始まります。

ファミレス 

2016, 09. 25 (Sun) 00:30


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今日、久しぶりにファミレスでご飯を食べる機会がありました。

や、すごく美味しかったですね。満足してお店を後にしたあと、ふとファミレスに行かなくなってどれくらいたつだろう……と考えました。よく「ファミレスの価値が下がったら大人の証」なんて言う人もいますが、ぼくはそんなことはないと思います。美味しいものは美味しいですし、もし時と共に変化するものがあるとしたら、それは舌や味のせいではなく、利用するシチュエーションや一緒に食事をする相手の変化によるものでしょう。

以前は確かにファミレスをよく利用しましたね。学生時代、友人達と映画を何本もハシゴして見た帰りとか、その勢いのままその辺のファミレスに立ち寄り、今見てきた映画の話など夜を徹してした記憶があります。学生の懐事情ですからたいしたものなど注文していないのに、やたら笑ったりもりあがったりと楽しかった思い出があるのは、やはりその場の空気込みで記憶がインプットされているからなんでしょうね。

ファミレスに限らず、以前よく利用していたようなお店に行く機会が減るのは、ひとつには外食する頻度そのものが減るからなのかもしれません。以前ならどこかに出かけようものなら外での食事は対になっているようなものでしたが、今はそのまま帰ってきたりしますしね。(もっとも、このへんの事情は人それぞれかもしれません。「いや、むしろ外食する機会増えたよ」という方もいるかもしれませんし、ひょっとしたらぼくだけかも。)

「食」に対しては体温の低いぼくですが、こんなぼくでも唯一食べ物でこだわるものがあります。それがお蕎麦です!

蕎麦にはうるさい方です。や、うるさいというより情熱を持っているというべきでしょうか。例えばどこそこに美味しいお蕎麦屋さんがある、などと誰かから聞くと、矢も盾もたまらず行きたくなってしまいます。

先日、所用で京都に行く機会がありましたが、友達から「美味しいよ」と薦められたお蕎麦屋さんにわざわざタクシーで立ち寄り、ちゃんと食してきました。(あのスティーヴ・ジョブスが好きで、日本に来るたびに立ち寄っていたお店だそうです)いや、すごく美味しかったですね。

一度、日本全国の美味しいお蕎麦屋さんをのんびり旅をしながら巡ってみたい、というのがぼくの密やかな野望です。きっと楽しいだろうなー。それぞれの土地にはそれぞれの打ち方で作られたおいしい地元のお蕎麦があるでしょうし。それに史跡巡りや城跡めぐりなんかが一緒に出来たら最高ですね。

うーん。ファミレスの話をするつもりだったのに、いつの間にかすっかり好きな蕎麦の話になってしまいました。

 

2016, 09. 24 (Sat) 00:30


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今、外では雨が降っています。

雨はあまり好きではありません。
などと書くと好きな奴がいるのか、という話になりますが、これが結構いるみたいなのです。そのむかし、英会話教室に通っていた頃、若いイギリス人女性の先生が、「わたし、雨の雰囲気が好き。雨が降っているとき、窓を半分開けて雨音に耳を澄ませながらを好きな小説の好きなページをそっと開く時間がたまらなく愛しいの(意訳)」というような主旨のことを言っていて、女の人の考えることはよくわからんと思った記憶がありますが、天気一つとっても事物のとらえ方はかくの如く多種多様のようです。

上述の先生は「雨降り」という単なる一天候の変化さえその高い感受性によって己を包む世界の断片として切り取り、かつそこにいる自分を一幅の絵として一旦外から眺めつつそこに美を見いだしているわけですが(きっと愛読書はヴァージニア・ウルフかシャーロット・ブロンテでしょうね)、どうやらぼくは感性がよほど鈍いのか、それともたんに脳天気なのか、そこまで雨の降る情景に対し思い入れを抱くことが出来ません。というか、こういうのは若くて綺麗な女性が言ったりしたりするから様になるのであって、ぼくが同じ事をやっても「いいから窓閉めろよ」の一言で終わってしまいます。

つまりは雨にしろ晴れにせよ、仮にも何かを「好き」というからにはそこには審美のひとつ、弁別のひとつも身のうちに備わっていなければならないわけで、それがない、もしくはそれをやりすごしてしまう人間にはそもそも好悪の情を表明する資格はないのでしょうね。「雨」と聞けば梅雨だの傘だのアディショナルタイムが長いだのを連想してしまうぼくはダメそうです。

このように到底詩人の魂を持ち合わせていないぼくですが、それでも日ごとにあたりが秋めいてゆく今の季節はけっこう好きですね。夕刻、風の中にほんのりと甘く含まれる早秋の匂いに、素直に「ああ、夏が過ぎていくな」と想い、移ろいゆく季節の気配にふと空を見上げたりします。まあ、秋になったら秋になったで、また違った感興を呼び起こすたくさんの自然の彩りや変化が周囲には溢れているわけですが。

十月まであと少し。通い慣れた自宅への道すがら、ふとそんな感慨を抱いた一日でした。


コストコ 

2016, 09. 23 (Fri) 00:30


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コストコはよく行きます。今日もたまたま行く機会があり、広い店内を見て回ってきました。休日と言うこともあり、お店の中は大勢の家族連れで賑わっていました。

コストコはなんといっても店舗の大きさが凄いです。商品もたくさんありますが、やはり圧倒されるのは商品のそのサイズですね。業者さんの仕入れ先なんじゃないかっていうくらい、お肉もパンも飲み物もとにかく一人では消費しきれないくらい大きく、量も多いです。コンビニの買い物みたいにあれを個人で食べ尽くすことができる人がいるとは思わないですから、やはり大家族用か、なかのいいご家庭同士で分け合ったりするのでしょうね。

ぼくのお目当ては玄関先に置く屋外用のイルミネーション。
この時期はハロウィンからクリスマスシーズンの移行時期で、ジャック・オー・ランタンなどハロウィングッズが目的だったぼくとしては少しタイミングが遅かったですね。でも巨大なクリスマスツリーやかわいいトナカイやサンタクロースのお人形やLEDライトのイルミネーションがたくさん飾られており、壮観でした。夜の屋外で点灯すると綺麗に映えるだろうな、と思いつつ写真に撮ってきました。もっとも冬の北海道ですと豪雪という問題があり、長く外に置いておくと雪の重みで痛んでしまうのですが。

ちなみに最近まで我が家では、昔コストコで購入した鉄製の支柱で支えるタイプの背の高い丸時計(公園の中央によくあるような奴)を長く玄関前に飾ってありました。数ヶ月に一度電池を取り替えねばならず、管理が大変だったのですが、ご近所さんから「来客があるとき、目印になる」とか「いつも時間がわかります」など好評だったため、撤去するにも撤去出来ず、七年間くらいシンボル的な存在として屹立していました。さすがに時針が遅れ気味になってきたので先日片付けましたが。

もうすぐハロウィンの季節。すっかり季節のイベントとして日本に定着した感のあるハロウィンですが、今年も家のまわりをかわいいオーナメントで飾り付け、秋の祝祭感を演出したいと思います。(子どもたちも喜びますしね!)



親戚 

2016, 09. 22 (Thu) 00:30

私事で恐縮ですが、親戚は多い方です。祖母が子だくさんだったので、親戚一同が何かの行事などで座敷に顔を揃えたりすると結構壮観というか、賑やかな感じになりますね。

でもごく小さい頃はともかく(子供の頃は夏休みや冬休みのたびに遊び相手になってくれるいとこがたくさんいて嬉しかった)、成人してからはそれがけっこう鬱陶しかったりしたものです。べつに親戚が大勢いてなにか困ったことがあるというわけではないのですが、早急に自分というものを作り上げなければならないと焦っている若い頃は、年長者や自分の過去を知っている人が時に疎ましく感じられるものなのかもしれません。言葉を換えれば、それだけ自分を理解してくれる人間が身近にいるということなんですけどね。

でもこの歳になってくると親族がたくさんいて良かったな、と素直に思えるようになりました。上述のように時間や記憶を共有してきた方たちがたくさんいるという事実に有り難いというか、感謝の念が自然とわき起こるようになったというか。だってこればかりは自分が望んで叶うものではありませんものね。

そして縁あって新たに親戚になる方たちも……。本当に、人間の縁(えにし)というものは不思議だと思います。遠く離れていても繋がっていたり、また逆もしかり。懐かしいよしみも新たなご縁も、せっかく故あって結びついたものでしたら大切にしていきたいものですよね。

などと柄にもなく感慨にふけってしまった一日でした。

カメラと写真 

2016, 09. 21 (Wed) 00:30


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先日、まん丸な中秋の名月がぽっかり夜空に浮かんでいるのを目にしました。

Twitterに載せたくて思わずスマホをかざして写真に撮りましたが、撮った後に見てみると思ったようには綺麗に撮れていなかったので、残念ながらTwitterに載せるのは断念しました。そのむかし、『時載りリンネ』でリンネが流れ星をがんばって写真に収め、それを夏休みの自由課題として提出する、という短編を書いた記憶がありますが、なかなか夜空に瞬く星や月をカメラに収めるのはむずかしいですね。まあ、専用の機材で撮っていないのですから当然と言えば当然なんですけど。

でもカメラを巧みに用い、美しい写真を撮れる人っていいですよね。以前も書いたような気がしますが、すごく憧れます。なにせぼくは本当に写真を撮るのが下手で、観光先とかでいくらカメラを持ち歩いても、撮った写真を後で見てみると「なんじゃこりゃ」というようなことがあまりにも多いので。年々カメラの性能は進歩しているわけで、にもかかわらず撮る写真すべてがことごとくヘボいとすれば、これはもう完全に扱う人間の側の問題でしょう。

こんなぼくがいちばん困るのは旅先で写真を撮って下さいとどなたかに頼まれるときです。一応快諾してシャッターは切りますが、結果はカメラに聞いてくれという感じで慎んでカメラをお返しした後、そそくさと退散します。まあ、特に設定とかは弄らずにボタンを押しているだけなので、先方が仰天するようなものは映ってはいないと思うのですが。

その点、子どもを被写体に撮るのはいいですね。親御さんに見せるためにたまに遊んでいるところを写真に撮ったりしますが、子どもはこちらの技倆や写真の映り具合にケチをつけたりしませんから。

とはいえ、いつまでも写真が下手くそなままでも口惜しいので、少し練習しよう! と、ガンダムが背中のビームサーベルを抜いた瞬間みたいな中秋の名月の写真を見ながら心に誓った清野でした。

となりのトトロ 

2016, 09. 20 (Tue) 00:30


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テレビの再放送、DVDその他でもう数えていないくらい見返した『となりのトトロ』ですが、先日なぜか母親と一緒に見る機会がありました。

トトロなんてもう全カット頭からおしりまで諳んじて言えるぜ、と豪語するぼくですが、母と並んで見るのは初めての経験だったので、ちょっと新鮮な気持ちで観賞することが出来ました。や、やっぱり文句なしに素晴らしかったですね。良い映画はいつどこでだれと見ようと良い映画なのだと再確認しました。いい年して泣くのは恥ずかしかったからがんばって我慢しましたけど。

うちの母親はとなりの家のおばあちゃん役の北林谷栄さんに感銘を受けたらしく、「すごい役者さんだねえ」としきりに感心していました。たしかにあの方の声は凄いですね。声のみで説得力と存在感を作品にもたらすあのパワーは、今日ではもう目に(耳に)することは出来ないものなんでしょうね。

サツキちゃんとメイちゃんも健気でかわいくて、カンタくんも優しくて、ほんとうに大らかな多幸感に満ちた作品でした。ぼくは『崖の上のポニョ』もかなり好きな人間なのですが(あんなに子どもを描けている表現は他にありません)、トトロからポニョまで宮崎駿監督が誠実にたどってきた一連の作品の、そして創作の遍歴を考えると胸が熱くなりますね。

宮崎監督、引退撤回をしてカムバックしてまた新作を作ってくれないかなあ。
などとと、尽きせぬ願望を抱いてしまった一日でした。

フランチェスコ・トッティ! 

2016, 09. 19 (Mon) 00:30


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久しぶりにサッカーのお話です。

欧州サッカーが開幕して一か月弱が経過しました。そろそろ各チームの今シーズンの調子や選手の構成、監督の采配ぶりなどデータが出そろってきたところではないでしょうか。

プレミアリーグはジョゼップ・グアルディオラ監督の率いるシティの調子が良くてスタートダッシュに成功、リーガはレアルとバルサが一歩も譲らず、ブンデスリーガはやはりというべきかバイエルンミュンヘンが強いですね。セリエAは今シーズンもやはりユーヴェの一強かなあ。でもナポリも移籍したイグアインに代わって獲得したFWミリクがいいですね。あんなにいい選手だとは思いませんでした。

長年サッカーを見続けていると(これはやむを得ないことかもしれませんが)、時々試合を見ることが「答え合わせ」をしているような気分になることがあります。つまり試合開始前に、すでにこちらの頭の中にいろんな事前情報―――そのチームのオフシーズンの放出選手や新獲得選手、指揮する監督の采配の傾向、フォーメーションや戦術などがおおよそ頭に入っており、試合を見ることで目の前のチームと自分の持っている情報とを「付け合わせする」ような感覚に陥るということです。

こうなってしまうとせっかくの試合がちっとも楽しくなくなってしまうので、あまり情報を詰め込みすぎるのも考えものですね。少なくとも試合中はすべてを忘れて純粋に選手の動きや試合展開を見るように心がけた方が試合を楽しめるような気がします。とは言っても、好きなチームや関心のあるチームについてはどうしてもオフシーズンに移籍情報を追ってしまうのですが。

でも逆に言うと、こちらのそんな前提を心地よく裏切ってくれるような試合や選手を見るとすごく嬉しくなります。それまで名前くらいしか知らなかった若い選手が大活躍したり、良い動きをしていたりするのを見ると、思わぬ発見をしたような気持ちになってちょっと得をしたような気分になります。テレビで見ているだけでそうなのですから、きっと実際にスタジアムや練習場にまで足を運ぶファンやサポーターの方にしてみれば、自分の目で発見した選手が活躍することは喜びやうれしさもひとしおでしょうね。

スタジアムでの観戦経験と言えば、以前スタジオ・オリンピコでASローマの試合を観戦したことがあります。スパレッティ監督が0トップをやっていた頃のシーズンで、確かローマが惜しくも2位で終わったシーズンです。

選手紹介の時、地元生え抜きのエース「フランチェスコ・トッティ!」のアナウンスが鳴り響いた後のスタジアムの歓声の爆発は鳥肌ものでしたね。あれは一生忘れないと思います。スタジアムが地響きを立てて震える瞬間というものをはじめて体験しました。

ちなみにその試合はローマが快勝したものの、もし負けていたらえらいことになっていたな……と思いつつ勝利の余韻で意気上がる熱い屈強なローマサポーターと、当時泊まっていたホテルまで並んで一緒に歩いて帰ったのも、今となってはいい思い出です。(電車が故障してて市内までてくてく徒歩で帰った)
もちろんローマのタオマフは首に巻き付け、決して手放しませんでした。(暑かったけど!)こういう場合、自分のアイデンティティー(旗幟)を証明する唯一のアイテムですものね。翌日の朝、早起きしてホテルの近くのキオスクで『ガゼッタ・デロ・スポルト』を記念に買ったのも思い出です。

うーん。当時のことを書いていたらまた現地でサッカーを見たくなってきました。イタリアは食事が美味しいんですよね。素敵な美術館も多いし……。

せめて中継を通して、今シーズンもサッカーを観戦したいと思います。
もちろんローマも(心情的に)応援します! そしてトッティも。

虫取り 

2016, 09. 18 (Sun) 00:30


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今日、知り合いの子どもたちと近くの川の土手で虫取りをしました。

「虫取り」と言ってもべつに何かの隠語でもメタファーではなく、小学生の使う虫取り網を使ってのほんとの虫取りです。ぼくの家の近くの川縁にはいい草むらがあって、朝夕にいい感じで鈴虫が啼いたりするのですが、子どもたちに虫取り網二本を装備させていざ出陣。晴れた秋空の下、虫取りをスタートしました。

子どもたちの動体視力と網捌きはさすがに素早く、あたりをひらひらと舞う蝶を次々と捕まえていきます。みていたら何だが面白そうで、ぼくも網を一本借りて、いざチャレンジ! 虫取りなんて小学生のころ以来ですが、意外と身体が動作を覚えており(手首をさっと返す、あの動きです)、子どもたちを押しのけ、草を踏み分け、最後は結構本気になって蝶を追いかけていました。

時間は一時間ほどでしたが、モンシロチョウとモンキチョウとオニヤンマをたくさん摑まえました。(交尾の最中の虫は摑まえやすい。)とりあえず捕った昆虫はじっくりと色や大きさや種類を観察した後、最後は元の草むらに逃がしてやりましたが、子どもたちも大満足だったようで、いい経験になったと思います。いい顔をしていましたしね。

ぼくもはじめは子どもたちの付き添い程度の軽い気持ちだったのですが、や、すごく面白かったです。でも、こういう行為を「いやあ、今日は久しぶりに童心に返った」などと言って、やり過ごしてはダメなんでしょうね。今後も続けていかないと。養老孟司さんなんてあのお歳でガンガン虫を捕まえていらっしゃいますし、人間、いつでも腰を軽くして敏捷に動けるようにしておかないといけません。木登り、魚釣り、虫取り……、きっと子供の頃に親しんだ動作には人間が生きていく上で大切な要素が含まれているんでしょうね。

というわけで、我が家では今後虫取り網は玄関先に常備しておくことにします!

以上、ささやかな午後の冒険についてでした。

夜歩く 

2016, 09. 17 (Sat) 00:30


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と言っても、金田一耕助の話ではありません。文字通り夜歩く話です。まあ、散歩の一種ですね。

夜に歩くのは好きです。夜中に書き物をしていて、気分転換に缶コーヒーを買いに近くのコンビニ行ったりよくしますし、若い頃の一時期タバコを吸っていた頃などは、公園のベンチまで一服しに行くことがよくありました。誰もいない夜道を、ズボンのポケットに手を突っ込んで普段着のまま歩くのってなんかいいですよね。自分の存在が、際限なく自由になる感じというか。

こういう話になると、よくお巡りさんに声をかけられるとか、不審者に間違われて職務質問を受けるとか聞きますが、幸いと言うべきかぼくはこれまで一度もそうした経験をしたことがありません。別に後ろぐらいところはないので、別にされても平気だと思うのですが、でもやはり夜中に制服を着た警察官の方に呼び止められたらちょっと緊張するでしょうね。たとえ悪いことをしていなくても。

夜の散歩の面白いところは、普段見慣れた景色がぜんぜん違って見えるところです。明るい日の下でちっちゃい子の歓声が響いていた公園や舗道はしんと静まりかえり、家々の窓明かりは絶え、車道を行き交う車の姿もない。何気なく毎日を送っていた場所が、夜の帷の降りたあとではまるで異なった様相を垣間見せる―――それだけでなんだかわくわくします。

鼻先に漂う夜気の匂い、いわゆる夜の匂いはいろんなイメージを喚起してくれますし、そこに微かに風とか吹いていたら最高です。たまに小説の中で主人公が夜出歩くシーンを描写する機会があったりすると、ちょっとはりきりますね。

むかし栗本薫さんの『魔都』という作品を読んだことがあるのですが(傑作です)、これも夜に誘われるように街をさまよい歩く青年が夜霧に包まれるうち、いつしか夢と幻想の世界へと誘われていく……という内容でした。不思議な読後感を持つ小説でしたが、やはり夜の闇はなにか人をいざなう力があるのかもしれません。

もっとも―――と、ここで急に現実めきますが―――寒い地方では、それもこれも雪の降る前までのお話ですね。季節が冬めいてくれば、普段着で外出する機会は自然と遠のきますし、根雪がどっしり根を下ろした雪景色の中を防寒着でフル装備して歩くというのでは、風情以前に少々世界観が変わってきますから。てゆーか、真冬の北海道を夜中にふらふらしてたら一歩間違えればマジ遭難します。

というわけで、散歩の楽しめる季節もあと少し。風邪を引かないように気をつけてちょっとだけ厚着して、今夜あたり歩いてみようかな……などと、昨夜、美しい中秋の名月を見上げながらふと思った次第でした。


北野映画 

2016, 09. 16 (Fri) 00:30


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先日(と言ってもかなり前になりますが)北野武監督の『龍三と七人の子分たち』を見ました。

すごく面白くて、観た後に率直に「いい映画見たなあ」と思える一本でした。ただずいぶん遠くに来たような、思わず自分のこれまでの映画遍歴を振り返るような、そんな感慨を呼び起こすような一本でしたね。これは映画の内容と関係のない、あくまで個人的な印象ですけれど。

とにかく北野映画は本当に好きです。本当に滅茶苦茶好きで、学生の頃はどれだけ見たかわかりません。映画好きの友達も武さんの映画にはいい加減狂っていて、北野映画の話だけでそれこそ何時間でも話せましたね。業の深い若い奴らを引きつける、何か途方もない魅力があの頃の北野映画にはあったような気がします。

『HANA-BI』を劇場で見たときのことは忘れられません。「俺は今、傑作を見ている」と思いましたし、エンドロールが流れた後も座席からしばらく動けませんでしたもの。
どこかのエッセイでご本人が映画について語られた折、「映画が終わった後、観客をそのまま数十秒縛り付けることが出来たら大したもの」というような主旨のことを仰っていましたが、まさにその状態でした。

では北野映画のどこがそんなに好きだったのかとあえて言葉にすれば(好きなものに、本来言葉など不要なのですが)、内容や話の筋がどうこう以前に、とにかく作品のフィルム全体に焼き付いている「生の現実が露呈している感じ」が好きでしたね。

ぼくらが日々過ごしている、そしてやり過ごしている現実が生々しく露呈し、さらけ出されている感じ……。初期の頃の作品はまさにそういった絵作りが青いトーンで統一されていて、もう見ているだけで最高に幸せなというか、全身多幸感に包まれることができました。その何とも言えない色気は静かな長回しと相まって、もうそれだけで何も要らない感がありました。

初期四部作は特にその香りが濃厚で、いまだに見返すたびに時を忘れます。たまにWOWOWとかで再放送をやっていると、もうダメだとわかっているのにチャンネルを止めてしまう。すると最後まで観る羽目になり。

好きな作品は……うーん。何でしょうね。選べないくらいどれも思い入れがあります。『BROTHER』も大好きですし、『ソナチネ』も『3-4X10月』も『あの夏、いちばん静かな海。』も好きです。『キッズリターン』も『座頭市』も『アウトレイジ』も何度も見返しますし、もちろん『みんな〜やってるか!』だって超絶大好きです。

大杉漣さんや寺島進さんが常連だったころの作品を見るといろんな記憶がフラッシュバックして何とも言えず胸が熱くなりますね。

北野武監督の映画で唯一不満があるとすれば、作品のほとんどがDVDばっかりという点です。はやく全作品をブルーレイで出して欲しい!と願いつつもう何年も待っています。特に初期の頃の傑作をハイクオリティな画面で見たい、というのはぼくだけでなくきっと映画ファン全員の願いだと思うのですが……。

もちろん元の映像が古い場合、ブルーレイ化はなかなか難しいことは承知していますが、でもやっぱり綺麗な画質で北野作品を見たいなあ。

夢と睡眠 

2016, 09. 15 (Thu) 00:30


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夢は見ないほうです。

と言っても所謂将来の夢や野心の方の「夢」ではなく、夜にお布団の中で見る夢の方のお話です。

ぼくはむかしから夢はほとんど見ません。といっても医学的見地から言えば夢を見ない人間はいないそうなので、正確には「憶えていない」というべきなのでしょう。なにしろ目覚めた瞬間、寝ていた間のことは綺麗さっぱり忘れているので、夢の中で小説の構想を思いついたとか、何か素晴らしいストーリーラインを考えついた、なんていうお洒落な体験も残念ながらしたことがありません。(もしできたらいいなあ、と思うんですが)

また性格的にも淡泊な方なので、昨夜の夢をたどったり思い出したりするよりは自分が他愛もなくぐうぐう寝てる時間を大切にしたいと思うたちでして、そのせいもあってか夢には縁遠い人生を送ってきました。

でも、寝るっていいですよね。愛読書のひとつである『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリー提督は趣味の項目の欄に「昼寝」と書いたそうですが、同じようにぼくも寝るのは大好きです。子供の頃から寝付きはいい方で、これまでの人生で「眠れなくて困った」ということをほとんど経験したことがありません。(あまり声高に自慢できるようなことでもありませんが……)

たしかにずっとパソコンの前にはりついて原稿書きに頭を使った後(といっても単細胞のぼくのことですから使うと言ってもたかが知れていますが)にすぐにベッドに入ると、軽く脳が興奮状態にあって鎮まるまで少しかかる感じがしますが、強いて言えばそれくらいです。なので友人などから不眠症の体験談を聞くと、大変なんだなとあらためて思いますね。

穏やかな睡眠を取るコツは、寝る前にコップ一杯の牛乳を飲むのが良いとか、(荒木飛呂彦先生方式)身体の温度をわずかに下げた方がいいとか、逆に軽くシャワーを浴びてさっぱりした方がいいとかいろいろ聞きますが、まあ、こればかりはその人に合ったやり方が一番良いんでしょうね。昼間忙しくすごしていれば、心地よい疲労感と共に自然と眠気もやってくるのでしょうし。

というわけで今回の結論は……

よい睡眠を取るには日中の過ごし方が大事!

ということでしょうか。

ううむ。なんだか『銀魂』の銀さんと神楽ちゃんの睡眠不足エピソードみたいなオチになってしまった。


ブログを始めて一か月 

2016, 09. 14 (Wed) 00:30

おかげさまで、ブログを始めて今日でちょうど一か月が経過しました。

正直言って、一か月前、おっかなびっくり当ブログをスタートしたときにはまさかこんなに続けられるとは夢にも思っていませんでした。素直にうれしいです。今後ともよろしくお願い致します。

ブログを始めようと思ったきっかけは、『さよなら、サイキック』の出版が決まったことでした。ぼくはこれまで作品以外で自分の文章を人前で発表したことがなかったので、これを機会にぼくの作品を読んで下さる読者の皆さんともっと親しく近づきたい……という思いから、思い切って始めることにしました。

ではなぜこれまでそうしたことをしてこなかったのかと言えば―――いくぶん自己分析めきますが―――たぶん「物語を紡ぐことならともかく、自分は語るに値する情報を持っていない」という想いがぼくの中で強かったからでしょう。あるいは、言いたいことはすべて作品の中に込めている、という自信めいた気持ちもあったかもしれません。

それは一つの考え方ですし、当時の自分の決断を否定する気もありませんが、でも今振り返ってみると、ずいぶん頑なだったな、と思いますね。たとえそれが、作家は作品すべてに集中する、自分のリソースは作品を書くことのみに全部振り向けるべきだ、というストイックな想いから発したものだったとしても。

でもこんなぼくでも、話を聞きたい、近況が知りたいと思って下さる方が一人でもいるのなら、雑記でも雑感でもなんでもいい、なにか言葉を発信してみよう・・・いつの頃からかごく自然にそう思うようになりました。

とまあ、こうした経緯ではじめたブログでしたが、やってみたら結構楽しかったです。というか、こんなことならもっと早くから始めておけばよかったかなと思ってます。(人間っていい加減なものですね)でもまあ、そんな風に肩肘張らずに思えるようになったのも、時の経過がもたらした好ましくも自然な変化なのかもしれません。というか、たんに年を食ったせいかもしれませんが。

ちなみにブログに書く内容についてはあまり深く考えていません。最初の二、三回は下書きを書いたり、あれこれ題材を考えたりしましたが、最近は何も考えず机の前に座り、なんとなく思い浮かんだことを書くようにしています。いやホントに、こんなに気負わずに書いていいのか、というくらい。

初めの頃はブログを書くのに二時間くらいかかっていましたが、最近は慣れてきたのか短い時間ですむようになりました。もっとも、きちんとした内容の物を書こうとすると、やはりそれなりの時間はかかってしまいますが。

内容について改めて振り返りますと……うーん。我ながら本当に雑多ですね。
映画の話が多いのは、ぼくが今比較的多く映画を見る時間があるからだと思います。今後、好きな小説や創作のことなどについても少しずつ語って行ければなあと思っておりますので、楽しんでいただけたら幸いです。

ともあれ、今後もぼくらしく、のんびり気負わず続けていくつもりです。明日からまたよろしくお願いします!


登山 

2016, 09. 13 (Tue) 00:30


山はいいですよね。特に山岳の景色は綺麗で登山には憧れます。

といっても生粋のインドア派のぼくに登山の経験があるはずもなく、つまりは漠然とした淡い憧れだけがあったのですが、こんなぼくにも近年少しずつアウトドア指向が芽生えてきたのか、それとも単に年のせいか、もしできるのなら実際に登ってみたいと思うようになりました。

よくBSチャンネルなどで山岳番組(?)のようなものをやっていますが、あれっていいですよね。たまにテレビを付けてああいう番組を見つけると食い入るように見てしまいます。ハイビジョンの画質で見る山嶺の眺めは本当に綺麗で、まるで自分が登ってるようなつもりになって楽しんでいます。もちろん実際に行くとなると体力その他、イメージとのギャップで大変なんでしょうけれど。

こんなぼくですが、登山用の装備を見たり調べたりするのも地味に好きです。山岳グッズとか、憧れますね。カタログとか見るのも好きですし、お店で見るのも好きです。この寝袋は零下何度まで耐えられるかとか、ストックのグラム数とか、登山靴のメーカーあれこれとか「お前、そんなことしてる暇あったらどこでもいいから登ってこいよ!」というセルフ突っ込みを自分でしつつ、そういう機能性をあれこれ調べている自分の状態が結構好きだったりします。

まわりには友人を含め登山経験者はけっこういるので、彼らから話を聞いて今度山に行きたいですね。いきなり急な山はハードルが高そうなので、まずは低い山から。もっともどんなに低い山でも水平の大地は違って地面に傾斜や角度がつくぶん、また別の筋肉疲労が生まれそうですが。

北海道はもう秋。寒くなる前の最後の機会、モンベルで身を固めて、近場に登山に行きたいなあ。

きんいろモザイク 

2016, 09. 12 (Mon) 00:30


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今回はアニメのお話です。

ブログで映画、それも最新の映画ではなく昔の映画の話ばっかり書いていると、こいつは毎日古い映画見てニヤニヤしているだけの奴だとおもわれがちですが、そんなことはありません。ぼくだって現代的な作品や今話題になっている最新の作品を見たり読んだりしますし、結構好きです。(なぜか弁解めく)

たしかに、今読んでいるのは藤沢周平さんの『よろずや平四郎活人剣』と宮尾登美子さんの『櫂』だし、先週見た映画は『陽暉楼』に『鬼龍院花子の生涯』だし、昨日京都から帰ってきたばかりですが、でもそんなぼくもなにもかも忘れて高純度のエンターテインメント作品に惑溺するときがあります。アニメもそのひとつです。

そんな中で最近個人的に大好きになったアニメは原悠衣先生原作の『きんいろモザイク』です!
放送開始の頃から滅茶苦茶好きで、もちろんブルーレイも全部持ってます。一期と二期がありますが、どちらも何度も繰り返し見るくらい大好きですね。

どこが好きと問われれば、やはりとにかくかわいらしいところでしょうか。お話も会話も雰囲気もキャラも音楽もぜんぶかわいい。見ている間、幸せで溶けそうになります。でもそのくせ意外と深い話になったり、優しいオチが付いたりとあなどれません。

メインキャラクター五人はもちろん全員かわいくて好きなのですが(ほのかちゃんも)、強いて一番好きなキャラを選ぶとしたらアリスちゃんでしょうか。ぼくが『転校生』という存在に惹かれるという部分もありますが、ショートホームステイをした女の子が忘れられず、彼女に会いにはるばる異国までやってくるその一途さと行動力、妙に日本通なところ、なによりその愛らしいところが好きです。
でもこれだけピュアネスを体現したキャラクターでありながら特に目立たないところが彼女の、そしてこの作品の一番凄いところかもしれません。他の四人のパワーが凄すぎますものね。

ともあれ映画の公開がもうすぐ始まりますけど、楽しみです!

邦画づくし 

2016, 09. 11 (Sun) 00:30


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最近、春日太一さんの本ばかり読んでいるので見る映画と言えばもっぱら邦画です。
市川崑、五社英雄、岡本喜八。役者で言えば勝新太郎、仲代達矢、緒形拳、夏目雅子……。濃い。熱い。鮮やか。まさに邦画づくしです。

前も少し書きましたが、いい映画評論を読むと矢も盾もたまらずその映画が見たくなります。前に一回見た映画でも、新たな評論や解説を聞いたあとで見ると、また画面の中に新たな発見や思わぬ真実があり、新鮮な気持ちで見てしまいます。幸せなひとときです。

春日さんの評論はわかりやすくて深く、なにより文の端々に映画への愛情が溢れているので好きですね。おかげでいろんないい映画を見ることが出来ました。70年代、80年代の無造作に(あるいは酷薄に)通り過ぎてきた映画を再発見出来たというか。

上記の役者さんたちはいずれもおとらぬ名優ばかりですが、ぼくがまだ学生だったり、それほど映画に熱心でなかった子どものころにはまだご存命だったり、役者として円熟期に入っていた年代の方たちです。それを思うと「もっと早くちゃんと見ておけばよかったな」と後悔の念にかられます。せっかく素敵な宝の山が目の前にあったのに、と。
でも映画を見始めた頃はハリウッド映画の古典や名作を追うので精一杯だったんだよなあ。

ただ、だからといって、昔の仇を討とうとやたらとDVDを買いまくるのは考えものですね。見なければいけない、そして見たい傑作がどんどん溜まってしまいます。ぼくの場合、監督ごとに作品を全部揃えたいと思ってしまう方なので、気がつくと棚に入りきらないDVDの山が堆く積まれるということになりかねません。

・・・などと言っている間に今日も黒猫さんが玄関先でピンポンと。

うーむ。なんとかしないと。

最近の出来事(思いつくままに) 

2016, 09. 10 (Sat) 00:30

ここ数日、作品について真面目な話が続いたので、身近にあった出来事を思いつくままに―――。
まあ、気軽に読んでやって下さい。


・相米慎二監督の『魚影の群れ』を見たら音楽が三枝成彰さんだった

『魚影の群れ』(1983)は津軽でマグロの一本釣り漁を営む漁師とその娘、その恋人の運命を描く相米慎二監督の傑作(主演は緒形拳・夏目雅子)です。ひたすら感動して見ていたのですが、マグロ漁船の出港シーンなど音楽が流れるたびに、「なんかこの音楽の旋律、耳になじみがあるなあ。ていうかZガンダムの戦闘シーンみたいだ」と思っていたら、スタッフロールを見たら音楽がなんとあの三枝成彰さんだった。
いや、ほんとにすごい傑作ですからおすすめです。


・DQB/ドラゴンクエストビルダーズをはじめた

今さらながらですが、PSPでドラクエビルダーズを始めました。(遅い!)ソフトだけは買ってあったのですが、なかなか機会が無くて。まだ第一章だけど、すごく面白いです。でも一度作った施設を壊すのに勇気が要る。みんなよく作り直せるなあ。


・Twitterをまだうまく使いこなせない

少し前からTwitterをはじめましたけど、まだうまく機能を使いこなせていません。文章を打つときも、まだぎこちないし。もっと巧みに使えるようになれたらいいんだけど……。
ブログの方が書いててリラックス出来る感じがするのはやはりぼくが古い人間だからなのかな。


・近くを散歩していたら盆踊りの音楽が聞こえてきて懐かしかった

先月のことですが、近所を散歩していたら遠くの方から微かに盆踊りの音楽が聞こえてきました。「ちゃーんこ ちゃーんこ、ちゃんこ……」という北海道の人にはおなじみのあの盆踊りの音楽です。(どうでしょうの瀬戸大橋の場面で大泉さんと嬉野さんが話していると言えば、どうでしょうファンにはおわかりいただけるでしょうか)
いや、久しぶりで懐かしかったですね。たぶんミュージックテープか何かだと思うんですけど、子供の頃の気持ちを思い出し、ほっこりしました。


以上、つれづれなるままに、最近の出来事でした。

サイキック入門(その4) 

2016, 09. 09 (Fri) 00:30

超能力ってあったら便利ですよね。

もし仮に一個持てるとしたらどんな能力が欲しいかな……などと、超能力者であることを持てあましている少年少女の物語を書いておきながら、ふとそんなことを考えたりする筆者ですが、今回は超能力者ではなく、『魔女』といういささか変わった素性を持つ女の子、ロンドについてです。

ロンド

ロンドの最初のイメージは「病気で寝ている女の子」というものでした。
これは主人公のログを「重力を操る超能力者で、ビルの壁を上ることができる少年」と着想した事で同時に思いついた設定で、だったら高いマンションの一室で病で静養している女の子と出会ったら面白いんじゃないか……と考えたことがきっかけです。

ご存じのようにぼくはこれまで元気いっぱいの女の子を好んで書いてきたので、「病弱」というキーワードが最初に出てきたとき、自分でも少し戸惑いがありました。大丈夫かな、と。しかし書き進めるにつれ、この子の魅力に気づき、どんどん好きになっていきました。

ふつう「入院中の女の子」という設定ですと、どうしてもキャラが健気な感じになってしまいがちですが、ぼくとしてはこの子を通り一遍のキャラクターにはしたくなかったので、思い切ってロンドを呆れるほど元気で快活な女の子にしてみました。しかも途中からみるみる病気が回復するという設定にし、逆に男の子の方がその勢いに圧倒される、というストーリーを思い描きました。
こうしてベッドで寝ていた女の子と窓からひょっこり顔を出した男の子がある日突然恋に落ちるという200枚ほどの短編が生まれ、その後それが大きく膨らんで現在の作品の形となりました。

ロンドの性格を一言で現せば「復元力のある女の子」でしょうか。

つらいことや悲しいことがあってもそれを受け止め、前向きにがんばる力―――言葉にしてしまうとひどく簡単ですが、なかなかできないそれをロンドは一生懸命にやろうとします。それはぼくも書きながら、なぜログという少年がこの女の子に強く惹かれているか、わかった部分でもありました。

もっともお金持ちの上に大切に育てられたぶん、子どもっぽいところもふんだんに残しており、わがままなところも持ち合わせています。中身はけっこう人恋しい女の子なので、友達を欲しがったり仲間を欲しがったりサークルを作りたがったりとしきりにログを困らせていますが、そういうわがままもログにしてみれば案外嬉しいのではないでしょうか。(苦労性の苦労性たるゆえんですね)

恋に関しては……やはり不慣れですね。というか、ぼくが恋に長けた女性キャラを書けるはずがありません!(と開き直り)
でも、そこはやはり女の子だけあって、ログなどとは違い本能的に恋の駆け引きを知っている感じはあるのではないかと。

でも―――こう言ったら語弊があるかもしれませんが、ロンドはログと同じくらい、軍乃のことも好きなんですよね。ですから軍乃の告白によって、この三人の関係がどう変化していくか、あるいは「どう変化しないか」、その辺の機微をみなさんに楽しんでいただけたらなあ、と思っております。(書く方は大変ですが)

以上、ネット通販を使いまくりにして、凄腕のゲーマー兼引きこもりのインドア系病弱魔女、ロンドのお話でした。



サイキック入門(その3) 

2016, 09. 08 (Thu) 00:30

ええと、前回に引き続き、主人公の男の子ログの話をさせていただきます。
作者が自分の書いたキャラクターについてあれこれ述べるのも妙なものですが、書きながらいろいろ気づいた点もあったので。
ではあらためて―――。

ログ

ログは本作の主人公です。
物語の語り部であり、彼の視点を通して物語は語られていきます。
もっともこれまでも男の子の一人称で物語は書いてきたので、書き手としてそこまで変化はなかったですが、ただ超能力者である点と、それについての自意識をちゃんともっているという点が大きく異なります。
なにより高校二年生と年齢が上がったぶん、よりアクティヴになっていると思いますね。

彼の超能力である「重力をコントロールする力」はわりと初期の段階から思いつきました。ログの場合、壁に張り付いて窓からやってくるピーターパンみたいなイメージで、それを元に具体的な能力や設定を詰めていきました。ふてくされた、若干中二病の入ったピーターパン。
戦闘能力はあるとは思うのですが、正直戦いに向いたタイプではないと思います。

性格は……優しい男の子ですね。
自分ではあんまり気がついていないかもしれないですけれど、他人の苦労を背負い込む癖があるというか、傍から書いていて(妙な表現ですが)、「おまえ、そんなに背負い込むなよ」と言いたくなるときがありました。
妹のメグもかわいがっていますし、真面目ですね。

ただ17歳という年齢のせいか、女の子に対してかなりビビットに反応する感じにはなっています。でもまあ、この年齢で女の子に興味を持たない男の子なんていませんから。(きっぱり)
あんなうらやましいシチュエーションになっても理性を保っていられるのはすごいと思います。まあ、奥手なだけですけれど。

「女の子とつきあう」ということがよくわかっていない男の子なので、そのへんはぼくも書きながら一緒に悩んでます。失敗もいっぱいするでしょうが、ロンドもまたようやく思春期に入り口に入り始めたばかりの子なので、ちょうどいいバランスなのかもしれません。

グラツィアーナというやっかいな姑(そういえばJJもいますね)に間に入られ、今後彼がどうするのか、また軍乃の強烈なアプローチに対しどういった反応をしていくのか……?

非リア充歴=人生の主人公、ログの成長を見守っていただければうれしいです。

サイキック入門(その2) 

2016, 09. 07 (Wed) 00:30

ええと、前回、キャラクターについての説明が長くなってしまったので、もう少し続けさせていただきます。
ということで『さよならサイキック入門』(その2)です。
今回は『さよなら、サイキック』の主人公の獅堂ログについてです。

ログ

ログはぼくがはじめて書いた「男の子」の主人公です。
ぼくは女の子が大好きですし(と書くとなにやら語弊がありますが)、十代の半ばくらいで物語を書き始めたときから主人公は決まって女の子でした。

とくに元気いっぱいで、わくわくしていて、「きっと自分の前にはおもしろいことやたのしいことが待ち受けているに違いない!」と人生のスタートラインで目を輝かせて駆け出すのを待っているようなそんな女の子が大好きで、昔書いた原稿を読み返すと、主人公は決まってそんな女の子ばかりです。(いや、ほんと、自分でもその変わらなさにあきれるくらいです)

ではなぜそういう子を見たり書いたりするのが好きかというといろいろ理由はあるような気がするのですが、ひとつにはぼくの家庭環境というか、これまでの人生の間にそうした女の子とたくさん出会ってきたから、という事情があげられます。
以前も少し書きましたが、ぼくは若い頃から小さい子と接する機会がとても多く、その世話や面倒をずっと見てきました。数で言えば男の子も女の子も同じなのですが、ただ男の子の場合、自分もかつて男の子だった経験があるぶん自分の物差しや尺度でよく理解できるのに対し、女の子はあくまで他者であり、それがない。そのことがあるいは「描いてみたい」という意欲に繋がっているのかもしれません。

尊敬する宮崎駿監督が、以前インタビューか何かで「混迷した時代や先の見通せない時代(つまり現代)では、男の子より女の子の方が強いんだ」というような主旨のことをおっしゃっていましたが、よくわかるような気がします。
男の子は生きるため(存在するため)、人生の曙のある時期に『ブースター』のようなものを自分の力で見つけ出さなければならないのですが、女の子はもう、その存在自体が『ブースター』というか、いるだけで何も必要としない強さがある。

ただ、これまで女の子を主人公とした作品を書いていくうちに自分でも「ん、待てよ」という気持ちがわき出してきたのも事実で、女の子のパートナーとしてただその後をついていくのではなく、自分から物語を紡ぎ、動かしていくような男の子キャラクターを描けないかなあ、と思うようになりました。

そうした経緯の中、ふと書きだしたのが『さよなら、サイキック』の前身となる200枚ほどの短編です。男の子による一人称、という体裁は変わりませんでしたが、ここにはじめて重力を操る超能力を持つ男の子―――『獅堂ログ』が誕生したのでした。

すみません。また長くなってしまい、ログのキャラクターについて全然書かないうちに終わってしまいました。ログの話は明日に続けさせていただきます。
(ホントは今日の日本代表戦についても書きたいし……)

というわけで続きます。

サイキック入門 

2016, 09. 06 (Tue) 00:30

と言っても超能力の入門書の話ではなく、拙著、『さよなら、サイキック』について少し語らせていただこうかと。
題して『さよなら、サイキック入門』。
小学生の頃、こんなタイトルの本が学校の図書館に置いてあったような気もしますが、ぼくがこの作品を書きながら思ったことや感じたことについて少し語らせていただこうと思います。
まずはキャラクターについて―――。

軍乃

冒頭の場面は鉄塔によじ登る主人公の視点から、と考えたとき、同時に着想されたキャラクターです。正統派のキャラというか、男の子が憧れるような女の子を登場させてみたいと思って描きました。こういう「攻めてくる」タイプのキャラクターを書くのは初めてだったので楽しかったですね。加減を間違うと本当に「攻めっぱなし」になってしまうので会話のバランスには配慮しています。

あとがきにも書いたように、はじめはきちんと動いてくれるだろうか心配でしたが、主人公たちとも相性が良く、自在に動いてくれて助かりました。言ってみれば書きながらいろいろ内面を発見していったキャラクターでもあります。あんな過去があるとは思っていなかったですし、作品を通じて成長していったキャラクターだと思います。

もっとも、恋愛に関してはけっこうポンコツだと思いますね。あのアプローチを見る限りでは。美人だから取り繕うのがうまく、まわりからは誤解されることも多いですけど、中身は奥手なところもあるんじゃないかな……などと想像したり(あくまで作者の個人的な印象です)。変な話ですけど作者も読者の一人ですから、必ずしも作者の考えや印象が全面的に正しいとは限らないのです。

超能力についてはキャラクターの性格に即したものをと考えていたので、やはり火と炎かな、と。純粋な強さで言えばトップランクだと思います。でも本人は強さなんてどうでも良いと思っている子なので、当人としてはこの力を抱えることはあまり幸せではないですよね。後半の力をコントロールするまでのくだりは書いていて少し可哀想だった記憶があります。
イラストレーターのあすぱらさんにはかわいく美人さんに描いて頂きました。最初はセーラー服でしたが、今のデザインに落ち着きました。
夏服っていいですね。(としみじみ)

軍乃は書いていて楽しいキャラクターでした。なんというか、こういう凜とした女の子っていいですよね。
相手の男の子は大変だと思いますが(笑)。

キャラクターについては思いの外長くなってしまったのでもう少し続けさせていただきます。

スーツ 

2016, 09. 05 (Mon) 00:30

故あって今度スーツを着ることになりました。

スーツはふだんあまり着る機会がありません。もちろんそれなりの年齢ですから何種類かスーツは持っていますし、きちんとした格好は決して嫌いではないのですけれど、やはりこういう生活をしているとあまり積極的に背広に袖を通す機会はないようです。ワイシャツにネクタイを締めて一太郎の前に座っても仕方ないしなあ。

ですからふとした折にきちんと正装すると、こういう服装もいいもんだなと改めて思います。背筋がぴんと伸びますし、なにより気持ちが引き締まります。早朝、そのまま改札を通って颯爽と通勤する方たちと一緒に満員電車に乗ったりすると、いっそ自分が本当に通勤途中だったら……などと妄想を逞しくしたりします。

そのむかし、007のコスプレを趣味でしているという人を追った番組をテレビで見たことがあって、それってただのスーツじゃん、と思わずテレビの前で突っ込みましたが、(万年筆や腕時計、なによりスーツやネクタイまで本物のジェームズ・ボンドそっくりに仕立てるんだそうです)それに近いものがありますね。なんというか、ある種職業を偽っているような感覚。
思わず腕時計なんて見ちゃったりして。

でもジャケットを着る機会は年齢のせいか確実に増えましたね。というか、すごく楽なことに気づきました。食事に出かけるときとか、とりあえず一枚上着を羽織ればたとえノーネクタイでもそれで格好が付きますから。

でも考えてみると、これって裏を返せば確実に保守化しているというか、どんどん楽な道に逃げているような気もしないでもありません。こと服装に関して常識的になると言うことはトラディショナルに寄るというか、安全で無難な道を見つけるということですからね。女性はよくわかりませんが、男の場合は特にそうだと思います。そこには一種の諦めがあるというか。

若い頃の自分のファッションに思わず頭を抱えるっていう経験は多かれ少なかれ人間誰しもあると思いますが、やはりそれにはそれなりの必然というものがあるんですよね。(などとしみじみ)

そんなわけで・・・ええと結論です。
やはり、自分らしくいられる服装がいちばんなんだと思います。たとえそれがどんな服装であっても。

WCCF 

2016, 09. 04 (Sun) 00:30


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サッカー日本代表、負けてしまいました……。

前回のブログで勝ってほしいと書きましたが、先日のワールドカップ最終予選、日本代表はUAE代表に1-2で敗れてしまいました。日本代表のゴールは本田のヘディングゴールの一点のみ。ホームでありながら大事な初戦を落としてしまいました。
もう、へこんでしまって何のやる気も起きません。

と、書いてしまってはあっさりブログが終わってしまうので、サッカーの話をしますと、WCCFというアーケードゲームをご存じでしょうか?

これはセガから出ているサッカーのゲームで正式な名称は『WORLD CLUB Champion Football』。もう十年以上続いているゲームで、1プレイすると一枚、サッカー選手のカードがぴょこんと筐体から排出され、その選手のカードを集めて理想のチームを作りあげていくという、いわば現在の様々なカードゲームの先駆けのようなゲームです。
選手のカードは初めはセリエAというイタリアのプロリーグの選手だけでしたが、その後、プレミアリーグ、ブンデスリーガ、リーガエスパニョーラ、エールディビジ、リーグアンなど欧州各国のプロサッカーリーグの選手が使えるようになりました。日本代表の選手カードももちろんあります。

ぼくはこれを開始当初からやっており、ですからWCCF歴はかなり長く12~3年ということになります。
むろんその間ずっとやっていたわけではなく、途中何年間か離れていた時期があったり、また現在も熱心にやっているというわけではないのですが、でもこのゲームのことは好きでずっと追いかけてきました。

このゲームの特徴はなんと言っても何千枚もある選手カードの中から自分の好きな選手を集め、自分好みのチームを作れるという点でしょう。筐体から排出されるカードは完全にランダムなため(袋に入っていて中身は開けるまでわからない)、意中の選手のカードを集めるという楽しみがあります。むろんそれにはお金がたくさんかかりますが。

若い頃はこれにずいぶんとはまり、カード欲しさに友達と一緒に朝からこのゲームに興じたものです。(MVPトレゼゲを引いたときは嬉しかったなあ)ぼくは賭け事の類いを一切しませんが、人生で唯一それに近いことをやったとすれば、おそらくこの時期だと思います。

WCCFはその後も発展を続け、今ではもうどれだけの選手カードが排出されているのかわからないくらいです。ぼくもずいぶん遠ざかってしまいましたが、たまにゲームセンターを見かけると「やりたいなあ」と昔の血が騒ぐときがあります。特に今回のように応援しているチームが負けてしまったりしたときには。
ゲームの世界では自分の思うままにチームを拵えることが出来ますからね。

でもやっぱり現実の試合で日本代表に勝ってほしい。

というわけで、次の試合も日本代表をがんばって応援します!


散歩 

2016, 09. 03 (Sat) 00:30


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歩くのは好きです。

自他共に認めるインドア派のぼくですが、散歩はわりとする方です。当然家の近くを歩くことが多いですが、遠くまで脚を伸ばすときもたまにあります。事前になにか必要なものがあるわけでもないですし、思い立ったらふらりと外に出てあとは気の向くままに歩けばいいというその気安さがいいですね。とりあえずお財布とスマホさえ持っていればあまり困ることはありませんから。

歩いてなにをする、ということもありません。強いて言えば周りの景色を眺めたり、家並みを眺めたり、道行く人びとを眺めたりとか、そんな感じでしょうか。そもそも散歩とは歩くことが目的なのですから、歩くこと以外に雑念を持っては散歩になりません。

とはいえ、カメラなんかを携え、道を歩いていてふと気に入った風景や景色を写真におさめているような人を眺めると格好いいなーと思いますね。何というか、瞳に入った視覚情報をすばやく感性に変換するその鮮やかな手つきとスピード感、そういったものに自分にないセンスを感じ、憧憬をおぼえます。一瞬を残す、という感覚。ぼくはただ目の前の風景をぼーっと見て、「いいなあ」と思うだけですから。

散歩することでなにか物理的に得たものがあったかと問われると、あまり思い浮かびませんね。決して脚が鍛えられるわけですし、健脚になるわけでもない……。しいて言えば歩くことになれているので、普段の生活でも駅の一駅二駅の区間くらいの距離を歩くことはなんとも思わないことくらいでしょうか。そういや階段の上り下りも嫌いではないです。

ずっと書き物をしていると座っている時間が長くなり、よく脚が萎えるなどということを聞きますが、幸いこの散歩好きのおかげでぼくにそういうことはないようです。

九月の声を聞いてもまだ暑い日が続く北海道ですが、またどこかへ歩きに行こうかな。

散歩の途中、樹々がふと風に揺れているのを見るのがとても好きです。

サッカー日本代表 

2016, 09. 02 (Fri) 00:30


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久しぶりにサッカーの話です。

この記事がアップされる頃にはもう今日の試合『日本代表対UAE代表』の結果はわかっているのでしょうね。勝っているといいなあ。

日本代表の試合はもちろん全部見ています。時期的に言うとオフト監督の頃あたりでしょうか。ドーハの悲劇も深夜にリアルタイムで見ていて、翌日しょんぼりと友達と言葉を交わしたのを憶えています。あの日は終日みんなどんよりしてたなあ。

以来、ずっと日本代表を応援してきました。周囲の熱気がすごかったのはやはり2002年のワールドカップのころでしょうか。当時通っていた英会話の学校の先生が(イギリス人の方でした)ワールドカップを見るだけに一時的に日本に滞在するという気合いの入った人でした。ベッカムがPKを決めてよろこんでいました。ワールドカップが終わると帰ってしまいましたけれど、それだけのために地球の反対側に来るなんて英国人のバイタリティは凄いなと思った記憶があります。

日本代表で嫌いな選手はいませんね。みんな好きです。だって日本代表の青のユニフォームを着て戦う選手なんですもの。だから応援して当然だと思っていますし、汗を流して欲しいと思いますし、がんばってほしいと思っています。

そもそも男の子からすれば、サッカー選手を生業としているというだけですごいと思ってしまうんですよね。どれだけの人間がそれに憧れ、夢を抱き、そして挫折していくか。それを考えたらサッカー選手というのは本当に凄い人間の集まりだと思います。まして代表キャップを手に入れる選手なんて天文学的な確率でしょうから。

もっともそれでも好みの選手はあるわけで、ぼくは汗っかきの労働者タイプの選手や、他人のために身体を張る選手が好きです。これはもう昔から一貫していますし、外国の選手でもファンになっちゃうのは決まってそういう選手でした。もちろん、ロベルト・バッジョみたいなファンタジスタも好きなんですけれど。そのむかし、ルイジ・ディビアッジョというインテルの選手ががんばり屋タイプで好きでした。その後ブレシアに行き、バッジョと一緒にプレイした選手です。

日本代表に話を戻すと、鈴木隆行選手は今でも好きですね。ベルギー戦の得点は今もはっきり憶えています。(日本中のサッカー好きがそうだと思いますけれど)

あんな熱い闘志を、ぜひ今日の試合でも見たいです!

ってもう試合結果出ているんですものね。勝っているといいなあ。

ガンダム 

2016, 09. 01 (Thu) 00:30


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ガンダムなら語れます。

などと突然いばってもしょうがないんですけど、本当にガンダムは好きです。ガンダムに関してならこのブログ百回分語ってもまだ語り足りないくらいの想いがありますし、実際この作品にはこれまで多くのものを受け取ってきました。

ガンダムと言えばその作品数が膨大であることで有名で、今や一大サーガ―――というか一大ジャンル、またはひとつの神話体系みたいなものにまで成長しています。それ故に視聴者の思い入れも様々で、世代や年代ごとにみなさんがそれぞれ「自分の好きなガンダム」を持ってらっしゃることと思います。

ちなみにぼくがいちばん影響を受けているのは『Zガンダム』ですね。放送当時からリアルタイムで全話視聴した初めてのガンダムですし、人生で一番多感な時期にその内容や世界観をノーガードのまま浴びるように受けました。まあ、今となって振り返ってみるとそれが良かったのか悪かったのかわからないですけれど。

ぼくはかろうじてファーストも見ていたので、ファーストから始まって『Z』『ZZ』そして『逆襲のシャア』で一応自分のガンダムと青春は終わったという感じです。ですからある意味ふつうのガンダムファンかもしれません。もちろんそれ以降も『ポケットの中の戦争』や『08小隊』などがあり、ガンダムへの関心はずっと続いていくわけですけれど。

ぼくがガンダムで一番好きなのはやはりロバート・A・ハインライン直系のSF設定とストーリーに直接食い込んでくる政治の部分でしょうか。「ランク内閣はザビ家がてこ入れをしているのさ」なんて台詞を聞いただけで、もううっとりしてしいます。

つまり「ランク内閣」なんてあたりまえの政治談義っぽい言葉がふっとブライトという軍人の口をついて出るだけで、この世界がフィクションではなく(いやフィクションなんですけど)、現実に選挙があり、与党と野党の対立があり、戦時下での主戦派と非戦派のぶつかり合いがあり、それら力の結節点として「現在」を生きる人たちがいるということが、また同時に一部隊の指揮官とはいえ末端の軍人に過ぎない若きブライトの不満やいらだち、満足に補給すら受けられない現状に対する鬱屈として見る者に伝わってくる。それもこうした設定内の政治情勢を大上段にではなく、あくまで会話の一シーンとして控えめにさりげない形で示すところ、これが婉曲でまたいいんです。
(すみません。なにいってんだかさっぱりだ、という方は『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙』を観てください)

でも今になってはそういった見るだけで世界観の広がりを感じさせてくれる作品は(とくにロボットものでは)少なくなってしまったように思います。またガンダム自体、これだけ長く続いてしまうと、ある種自分の身の置き所に困るというか、作品自体が己自身の過去を持てあましているような、そんな印象を受けてしまいます。
でも一人もファンとしてはこれからもガンダムは見たいですし、どこまでもつきあうつもりでいます。これはもう業のようなものですね。

その意味では先年放送された『ガンダムビルドファイターズ』はとても好きな作品でした。見ていてとてもわくわくしましたし、放送を毎回楽しみにしていました。子ども向けアニメという体裁を品良く保ちながら、あんなに優しく往年のガンダムファンの愛を受け止めてくれた作品は近年なかったのではないでしょうか。

きっと機動戦士ガンダムはこれからも続いていくでしょうね。もちろんぼくもつきあいます。
たぶん、あれこれ文句を言いながらも。