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評論・批評 

2016, 09. 29 (Thu) 00:30

アニメ、映画、演劇、文学……それがどんなジャンルであれ、評論や批評というものはむずかしいものです。ぼくも当ブログにて何度か映画について評論めいた文章を書いたことがありますが、やはり難しいですね。

たんなる愛情告白ではなく、信仰告白でもなく、(ぼくはわりとそうなってしまいがちですが)、あるいはただ貶すのでもなく、きちんと対象となる作品と距離を取り、作品のあらゆる角度から光を当て、その作品が秘めている輝きや本質のようなものを抽出し、読み手にむかって提示する―――映画の時も少し書きましたが、それまで未見だった作品を思わず観たくなったり、読みたくなったりする……そうした力を持つ評論こそが本当にいい評論ですし、素敵な評論だと思います。もちろん言うは易く、行うは難し。いざこっちが書く段となると、そうした評論はきわめてハードルが高く、頭を悩ませるところなのですが。

では評論をする側ではなく、される側の立場としてはどうなのでしょうか? もちろんこれはうれしいものです。ぼくも身に覚えがありますが、自分の作品を読んでくれて、しかも感想や評論を書いてくれる人までいるということは物書きとしてこんな嬉しいことはありません。特に作者本人が気づきもしなかったことに光を当ててくれるような批評はありがたいですし、励みになりますね。

むかしの話で恐縮ですが、拙著『時載りリンネ』の第一巻『はじまりの本』が出版されたとき、ネット上のとあるサイトでライトノベルの感想や評論を行っている方がこの本を取り上げて下さり、その書評の中でこの物語の主人公は女の子の脚ばかり見ている、と指摘されているのを読んだことがあります。いや、びっくりしましたね。なぜならぼくはそんなことを、一度も思って書いていなかったからです。でも、当たっている。

このリンネという作品は、久高という小学六年生の男の子の一人称視点で叙述されている物語で、「久高の視点」は、当然、作者であるぼくの視点と言うことになります。つまり、書き手であるぼくは自分でも気づかないうちに一生懸命せっせと女の子の脚ばかり描写していたわけで、そのことをずばり指摘されて、素に近い驚きを感じました。

今振り返ってみると、その驚きの中には「なるほどなあ」と思い当たる、あるいは腑に落ちる感覚とともに、自分の中のフェティッシュな部分を正確に言い当てられた新鮮さ(つーかお前の女の子好きはバレバレだ、と言う方もおられるかもしれませんが)が含まれていたように思います。まさにこれこそ評論の力に他なりません。や、この評論を読んですごく嬉しかったですね。滅茶苦茶恥ずかしかったですけど。

(ただひとつ言い訳させて戴くと、「女性の脚」というのはわりと物書きとしては描写しやすい部位ではあるのです。……と、ううむ。我ながら苦しい言い訳。)

同じような経験はリンネの第三巻『ささやきのクローゼット』でもありまして、これまたどこかのネット上の書評で、ある方がこの作品の構造について言及されていたときのことです。

この作品『ささやきのクローゼット』は主人公であるリンネがある日、それを扉に付けるとたちまちその扉が不思議な世界に通じるドアに早変わりするという『魔法のドアノブ』を手に入れ、それを自分の子ども部屋のクローゼットの扉に取り付け、異世界と自分の部屋を母親に内緒で行ったり来たりする、というお話でした。そしてその書評はこの作品の構造が、アニメ・劇場版ドラえもん第二作『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』の構成のそれとよく似ていると端的に指摘するものでした。

この評論を読んだときもぼくはびっくりしました。なぜなら、この「似ている」と指摘された『のび太の宇宙開拓史』はぼくが子供の頃生まれて初めて映画館で見たアニメ映画(漫画映画)であり、当時本当に大好きな作品だったからです。そして、そんなことはその時まで完全に忘れていて、むろん『ささやきのクローゼット』のプロットも構成も、『宇宙開拓史』を念頭に置いて書いたものではなかったからです。

そうした経緯にもかかわらず、この二作品に構成や物語の展開に共通する点が多い、という書評を読んだとき、ぼくは本当に嬉しくなりました。それは少年時代を振り返る懐かしさとともに、数十年という歳月を超えてかつて自分が感動を受けた作品と似た作品を小説に書き上げることが出来たというよろこび、さらにそうして得た作品に対する想いや情念は時を継いで人を継いで脈々と続いていくのだ、というたしかな実感のようなものを感じたからだと思います。

上記の書評はぼくの中に眠っていた個人史を見事に引き出してくださった評論としてとてもありがたく思っていますし、いい思い出ですね。それでは自分はと問われれば、自分もそういう力のある評論を書いてみたいと思いますが、やはりハードルは高そうなので、せめて作品の方でかつて少年時代の自分が影響を受けたり、寝食を忘れて読みふけったような作品に少しでも近づけるものを書いていきたいですね。
ちょっとずつ、たとえ、一歩ずつでも。

リンネという作品 

2016, 08. 26 (Fri) 00:30

ブログを始めて二週間近くが経ちました。

はじめは「作品を書くこと以外に、ぼくにだれかにむけて語ることなんてあるのかな?」という気持ち半分でいましたが、あまり気負わずにはじめたのがよかったのか、それともこういうのが案外好きな性格なのか、おかげさまでけっこう楽しんで書かせていただいています。

そんな中、先日ひとつご質問をいただいたので答えさせていただきます。
拙著『時載りリンネ!』に関するご質問で、「『リンネ』の続きはもう書かないのですか?」というお問い合わせでした。

まず最初に、リンネの続きを楽しみに待っていただいている読者の皆さんにお詫びしたいと思います。
長い間お待たせして大変申し訳ありません。

言うまでもなく『時載りリンネ』はぼくのデビュー作であり、ぼくにとってもたいへん愛着のある作品です。
よく「作家のすべてがその処女作に現れる」なんていう言葉が言われますが、今振り返ってみても『時載りリンネ』には確かにぼくという作家を構成する様々な要素……本、女の子、冒険、好奇心、未来や時間といったエッセンスやテーマが、暑苦しいまでの情熱と共にいっぱいにつまっています。

ぼくは若い頃から小さなお子さんと接する機会が妙に多く、その経験はほとんど物書きを志した頃から今現在までの期間に匹敵する、いや、もしかしたらそれ以上と言っても過言ではないくらいです。
「子育て」や「教育」になにか特別な能力を有しているというわけではないのですが、少なくとも元気いっぱいなガキンチョたちの横でたっぷり時を過ごしてきたぞという自負は今も持っています。
(もしかしたら、小さい子の世話は書くことよりも自信があるくらい)

『時載りリンネ』という作品にはそんなぼくの記憶や経験が物語の端々に満ちており、今思っても本当に伸び伸びと自由な気持ちで書いていると思います。こんなにライトノベルのセオリーから外れていいのか、と思うくらい。
(というか、一巻に関しては完璧にライトノベルと思って書いてないですしね)
と同時に、それらはいつでも甦るリアルタイムな体験であり、その意味では自分の中でリンネの世界は少しも古びた感じはしておりません。

ただ振り返ってひとつ感じるのは、やはりリンネの12歳の小学生という年齢は角川スニーカー文庫の読者さんの年齢を考えると、少し難しかったように思いますね。じっさい、当時の編集者さんにもその点について何度か指摘された記憶があります。
でもこの作品を書くことができて、それもデビュー作で発表することが出来て本当に幸せだったと思います。
そして機会があればまたぜひ続きを書きたいと思っております。


ご存じのように、ぼくは今『さよなら、サイキック』という新しい作品に取り組んでいます。この作品はぼくなりに新しいことや取り組みに挑戦したもので、読者の皆さんにはそれをぜひ読んで感じていただければなあ、という思いでいっぱいです。

なので、現在のぼくがみなさんに申し上げられることは『時載りリンネ』はぼくにとってとても愛着のある作品であるということ、いつの日か続きを書きたいと思っていること、そして今は取り組んでいる『さよなら、サイキック』に全力を尽くしているということ、以上です。言葉足らずで申し訳ありませんが、ご理解いただければ幸いです。

そして至らないへっぽこ作者ですが、読者の皆さんには今後もおつきあいいただければこれに勝る喜びはありません。

よろしくお願いします!